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ムチツジョチツジョ

思考は無秩序 言葉は秩序 趣味と股間は無節操

秋月涼考察の前置き的な――無印真シナリオとの比較検討を中心に

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 前回の真コミュと同様、今日からアイマスDS秋月涼のシナリオ進めながら思いついたことをTwitterに垂れ流す。自分でなかなか気に入ったツイートなどはブログ記事で引用するかもしれない。物事が義務化すると途端にやる気をなくす人間なので、特にノルマも設けず気楽にやろうと思う。試験とレポートと就活からの逃避…じゃなくて、息抜き程度に。

 

※無期限停止

 

 さて、秋月涼とはどのような人物であり、どのような物語を歩むのか。マトモに通してシナリオプレイをしたことがない私は「なんとなく、だいたいのこと」しか知らない。その程度のもので恐縮だが、予備知識の整理を始めたい。
 

 

 秋月涼のシナリオにおいて特筆すべきは「事務所の命令で女装させられ、性別を偽りアイドルをしていること」だろう。また、彼自身は「男性的でありたい」と望むも、他者(主にファン)から望まれている振る舞いは女性としてのものである。
 この構造だけ見るならば、無印の菊地真シナリオと非常に似通ったものであることが分かるだろう。両者ともに自分本来の(かつそうありたいと望む)性と他者から求められる性役割が異なる。そしてその現状を打破せんとして門を叩いたアイドル世界からも、自身の望まぬ役割を強要される。しかしこの2人は、完全に同一な構造を持っている訳では決してない。
 
 まず挙げられるのは、菊地真は周囲の人間やファンに実際の性別を偽っていないが、秋月涼は一部の人間を除き徹底的に隠している点だ。<アイドル・秋月涼>の仕事への真意は、なにかと突っかかってくるライバルや同じ事務所の仲間、教えを乞う(皮肉にも似た境遇の)先輩ですら知らない。同じ立場にいる者がいない彼は、孤独である。
 だが、実際の彼は活動を続けることで人の繋がりを広げている。立場や目的は違えど女性アイドルとして同じ道を歩んでいるのだ。全てを明かす時までに、彼はその絆を結んだ「女性アイドル」という選択肢に意味を見出さなければならない。またその意味は、肯定的でなくてはならない。
 
 次に、異性装をする両者の性別が真逆である点だ。なんともつまらない指摘であるように思われるかもしれないが、男装と女装では意味するものが全く異なる。
 男装は実際の歴史や創作・物語などで頻出するが、その多くは男性社会での地位・発言力・戦場に出る機会を得るためのものである。女性の社会進出ということでジェンダー論と並んで記述されることが多いが、ここでの詳細は省く。すなわち、「男装」という行為は男女平等の観点から語ると肯定的に認識されることが多い。
 一方で女装はどうだろう。宗教的な価値観によるもの、つまり霊的な能力を備える存在である女性にあやかるためなどの古来の事例はいくつか存在する。しかし社会的に「女装」が意味を持ったことはほとんどない。あらゆる世界・時代でも女装は同性愛的な価値観と追随して発生する文化であることが非常に多い。しかし、ご存知の通り秋月涼はノンケだ。彼のメリットにはならない。
 さて、他の女装の事例には、女性と偽り側室などに潜りこみ相手を油断させ暗殺するため、つまり「自分を弱く見せるため」「守られる対象になるため」というものがある。異性愛者ではあるが男性的な強い役割を求められることに疲弊し、休息のために女装するという例もあるそうだ。女装により脱ぎ捨てられる男性性は「強さ」と呼べるだろう。
 ここでいったん無印真シナリオに話を移す。真は女性性を得ようとしたが自身の努力だけでは不可能であった。彼女が出した答えは、自分を肯定してくれるプロデューサーを拠り所にして女性性を与えてもらうこと。つまり、恋愛によって女性性は与えられるという結論だ。その答えを得るため彼女は否定していた「オトコっぽい自分」を肯定し、様々な世界・自分の可能性をアイドル活動を通して知る必要があった。彼女の男装とは、「自分らしさ」をプロデューサーと探す旅であったともいえよう。さながら男装をして戦うことで真実の愛を得る、手塚治虫の『リボンの騎士』のように。
 涼が得ようとする男性性、すなわち「強さ」は女装により手放されるもの。では、涼はなぜ女装をするのか。現在ではまだ推測の域でしかないが、それは女性コミュニティに(外見上は)同じ立場として身を置くためではないか。女性性が与えられるものであるならば、男性性は与える対象がいて成り立つものなのだ。なお、この推察にはかなり疑問点が残るため、実際のプレイで詳細な検討を加えたい。
 
 最後に挙げる相違点は、真と涼の間にあるものと呼ぶより、無印とDSの間のものと考える方が適切かもしれない。それは、プレイヤーの操作するキャラ――すなわち主人公が前者はプロデューサーであるのに対し、後者は涼自身だということだ。
 本来アイマスはプレイヤーである自分をプロデューサーに投影し、アイドルを頂点へと導くゲームだ。つまり、アイドルはあくまで他者として接する存在。コミュでの会話選択も、自分の予測した返答や結果とは大違いということも少なくないだろう。彼女らは、プロデューサーが完全に操作できる相手ではないのだ。
 一方で外伝的なアイマスDSの主人公はアイドル自身。しかし、本家シリーズのプロデューサーのように自己を投影できる対象ではない。なぜなら彼や彼女らは顔を持ち、性格を持ち、様々な出来事に一喜一憂する、われわれとは異なる個性の際立った存在だ。(Pも十分キャラ立ってるじゃねえかとかは置いといて)また、DSアイドルはプレイヤーに心の内面を知らせてくれる。小説でいえば本家は三人称視点、DSは一人称視点という訳だ。プレイヤーはアイドルを自身とほぼ同一の存在のように知覚が可能になる。つまり、アイドルに自己を投影するのではなく、アイドルを自分に投影する(なりきる)といった方が近い。そのため我々プレイヤーは、ゲーム中で彼(彼女)として行動の選択をする。その結果は本家のようにプロデューサーを介さず、良いものも悪いものも直接我が身に返ってくる。
 裏を返せば、その結果は自らが選び取ったものであるのだ。だからDSシナリオにおけるベストエンドは、アイドルがプレイヤーとして選択できる存在である以上、自らが選択して勝ち取ったものでなければならない。与えられたものではなく、掴み取ったものなのだ。これは上記の「男性性」と関連するところがあるのではないかと考えるが、これも今後の課題とする。
 
 
 前置きと呼ぶにはずいぶん長くなってしまった。
 「シナリオはこうでなければならない」という論調もアレね。うぜえ。
 まあ明日からは省エネで適当に考察するんで、よければどーぞ。
 
 
 
 

※参考文献(的な)

 

「女装と男装」の文化史 (講談社選書メチエ)

「女装と男装」の文化史 (講談社選書メチエ)

 

 

別にクリックしてもぼくにお金とか入らないんで大丈夫です

ちなみにぼくは図書館で読みました(小声)

 

 

 

 

 

 

 

追記
iPhoneで「あきづきりょう」って打ったら予測変換に「秋月涼ちゃん」って出てきた
女の子説が完全に証明されてしまった