公式設定と二次創作で揺れ動く"キャラ"の在り処
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この記事は書きかけです。
執筆途中でデータが飛んでブチ切れながら概要をTwitterにまとめてたら唐突に復活し、モチベが消え失せたのでこのまま公開します。
いつか清書するかもしれませんが99.9999%放置します。
概略まとめたTwitterは以下に転載します。
大変お見苦しくて申し訳ございません。
キャラの理解モデルは
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
・物語装置
・虚構存在
・還元消費
の3つに分かれるものとして定義する。
・物語装置
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
作品内で提示される物語(プロット)を表現するために用いられる、道具的な役割。ホームズシリーズにおけるワトソンは狂言回し、ホームズは探偵役、など。町人Aや警官Bと違って物語の進行において代替不可な存在。
物語装置としてのキャラはあくまで「作品(テクスト)で描写された箇所」でしか存在できない。また、物語の進行に無関係な属性は問われない。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
・虚構存在
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
作品で表現される虚構世界において主体的存在として確立されているという仮定に基づくキャラへの認識。ホームズの背中にホクロがあるかどうかはテクスト上不明だが、虚構世界に存在している以上「あるかないか」自体は決定されうる、という態度。
このモデルでのキャラは「物語」による束縛を受けないため、まったくのパラレルワールドやif世界であろうと主体的に行動することが可能。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
・還元消費
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
キャラやその行動を「ツインテール」「ツンデレ」「壁ドン」といったテンプレート化した解釈(≒萌え要素)に還元し、「萌え」「尊い」「カッコいい」などの単純なこと感情を喚起させる道具として扱う解釈。
要素に還元したためキャラの全体を捉えてはいないが、その前提を除外することでスムーズな感情喚起が行える。なお、現実世界でのキャラ的コミュニケーションや芸能人に対する見方でもこの「還元消費」はたびたび見られる。つーかいろんな本のパクリ概念。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
ここでまとめると、それぞれの違いは
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
・物語装置→焦点は「物語」
・虚構存在→焦点は「(主体的存在としての)キャラ」
・還元消費→焦点は「消費者」
にある。
二次創作への立場
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
・物語装置→存在を認めない。テクスト外なら無関係の作品でしかなく、論ずるに値しない。
・虚構存在→キャラが同一であればif世界もパラレルワールドもOK。新たなキャラの見方が分かるはず。
・還元消費→消費者が一番楽しいと思える作品を作る。キャラは共通コードに便利。
対立するのは虚構存在的認識と還元消費的認識。キャラの一致/不一致自体は実は問題ではなく、本質には「キャラは誰のためのものか」という認識に齟齬があったのではないか。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
これはコンテンツの受容の仕方自体が異なるため、議論はどこまでも平行線になり不可能。大人しく不可侵条約を結ぶべき。ぶつかり合う相手とだけ議論した方が建設的。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
余談。これまで俺は虚構存在の態度を取ってきたが、所詮イデア界(≒万人に共通の虚構世界)は存在しない。テクストに空所がある限りどこまでいっても「個人の解釈」にしかならない。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
同一作品内でも「主体的存在としてのキャラ」は妄想に過ぎなかったと思い知らされた。そもそも「人間には一貫した本質がある」という態度自体が傲慢、況んやキャラクターをや。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
よって「これからは何を語ればいいのか」について肩の力を抜いて次の記事ではお話しします、ちゃんちゃん。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2017年1月20日
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○注意書き
自分にとって最高にストレスフルな話題だったので適当に仕上げました。
もう少しちゃんとわかりやすく書くべきなんですけど本当これに関してはごめんなさい。
あとこの話題に関心ある人は伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』とか東浩紀『動物化するポストモダン』とかを読んだりその辺から発展した議論を自分で調べた方がいいと思います。パッと見た感じ三浦俊彦『虚構世界の存在論』とかすごいよさそうです。ちなみに自分は上記の3冊全部読んでません。つまり先行研究はほとんど踏まえれてないんでなんか本当にごめんなさい。
○はじめに
あなたはアイマスやラブライブや艦これといったキャラクターコンテンツが好きだろうか。まあ、この記事を読むのは恐らくそういった人たちだろう。では、自分の中のキャラ像と公式から提示されるキャラ像が乖離してしまったという経験はあるだろうか。しかも、その公式のキャラ像が自分の気に食わないものだったことが。
私にはある。それこそ数えきれないぐらいにだ。そんなとき、あなたはどのようにしてその差異を捉え、立ち振る舞っただろうか。
考えられる手段には
1.自分の認識を改めてより新しいキャラ像の方にアップデートする。
2.既存のキャラ像と現在のキャラ像を解釈によりすり合わせる
3.別個の存在として認識し、既存のキャラ像のみを受容する
4.新旧それぞれの良いところを合わせてオリジナルのキャラ像を作る
5.全てを諦めコンテンツから離れる
などがあるだろう。
だが、そもそもなぜ公式と自己のイメージが乖離するという現象が起こるのか。まず考えられるのは、受容者の認識が間違っていたということだろう。これを解決するのが2の手段だ。しかしそれでは納得できない場合がほとんどである。意固地になっているだけだと周りに言われても、譲ることの出来ない「なにか」がある。その「なにか」があるから、架空のキャラクターに熱を上げることが出来る。
そう、愛したキャラクターは架空の存在に過ぎない。つまり誰かに作られた概念上の存在であるのだ。だからその作者が別の人物であれば、同じキャラクター名を付けられていても異なる性格や考えを持つのは当然である。仮に同じ作者であっても、時代の流れで思想は変化していくものだろう。キャラクター自身が主体的存在として独立していない以上、「ブレる」のは避けられない。
何を持って「そのキャラ」だとするか。たとば公式こそが絶対のものだとしてその設定を信頼し、新しく提示された設定を追い求め続ける、上記における1の手段がある。もしもついていけなくなれば「コンテンツへの熱意が冷めたのだ」と判断し、むやみやたらに追うことをせずに別のコンテンツを探す、5の手段に移る。それもいいだろう。ダメージが少ないうちに新たな幸福を追い求める方がよほど賢い。効率的だ。しかし人には執着というものがある。簡単に移れるものならそうしたい。
さて、では先ほど言及した公式とは本当に信頼たりうる存在なのか。これは個々人のスタンスに過ぎない。そもそも公式とはなにか。この文脈における「公式」の対立項として挙げられるのは「二次創作」だろう。二次創作に対する公式、公式に対する二次創作。しかし現代のオタクコンテンツはネットの普及などにより製作者とファンの距離が非常に近くなっている。そのためか、公式が二次創作ネタを逆輸入する現象がときおり発生する。もしくは声優のキャラクター性が演じるキャラに影響を及ぼすこともある。いずれも作品の本質とは無関係の筈の、外部の文脈が内部に侵入する現象が――
ああ、もう中途半端に一般性を持たせるのはやめよう。
ここから先の話は全て「アイマス」の話と思ってくれて構わない。
公式の揺らぎに苛立つ古参と自分たちの今に水を差され怒る新参の論争にはほとほと嫌気がさしている。あるときふと気づく。見ている世界が違えば、分かり合えないのは当然だろうと。問題は解決しなくとも、問題が起きる原因さえ分かれば心の持ちようも変わってくるのではないか。その見ている世界とは、「キャラ」の捉え方だ。
キャラというのは、どこにいるのだろう。われわれは、キャラになにを求めているのだろう。キャラというのは、いったいなんなのであろう。
「プロデュース」という表現を用いてファンに能動的な態度を求めているようでいて、他のコンテンツよりひときわキャラ像を曖昧にするアイマスに私は始終苦しめられた。ここでなんとかケリをつけられたように思うので、ひとまずここに記す。
○キャラの3要素
われわれは二次元キャラをどのように捉えているのだろう。まず一番古典的な考え方に物語の登場人物、いわば「物語装置」としての要素が挙げられる。物語そのものの定義も難しいのだが、ここでは「作品内で表現される連続した出来事の集合体」としておく。物語装置とは、そのような連続した出来事を表現する上で材料となる事物のことである。『指輪物語』における力の指輪、『檸檬』における爆弾(に見立てたレモン)、『ドラえもん』における4次元ポケットといった小道具と同列の存在としてキャラを見る態度——それが「物語装置としてのキャラ」だ。
もう少し具体例を挙げる。たとえば「シャーロック・ホームズ」シリーズにおけるワトソンは、読者の物語への理解を助ける狂言回しとしての役割を持ち、作者が意図的に配置した登場人物だといえるだろう。同作のホームズは探偵役の主人公で、彼がいなければお話しは成り立たない。一方で作中の事件で捜査にあたった警官Bだの、証言をした屋敷のメイドだの、そういった存在はいてもいなくても物語にはほとんど影響がない。すなわち、物語装置としての役割を果たしていない、情景や環境の描写などと同じ位相にいるということになる。
さて、物語装置としての彼らが存在しているのは、小説であれば文章、映画であればカメラに映されている間といった物語言説――「テクスト」の中だけである。つまり、殺人事件が発生すれば小説内でその事態について描写もされるだろうが、その日の朝にホームズがコーヒーを飲んでいたか紅茶を飲んでいたか何も飲んでいなかったかは知りようがない。というより、描写されていない事象は存在すらしていない。その必要性もない。なぜなら、物語で果たすべき役割には一切関係のないことなのだから。
しかし「ホームズも朝飯ぐらい食っただろう」と推測は出来るし、たとえテクストに描かれていなかろうと、ホームズは生まれてからテクストに描写された場面までの期間もその世界に存在し、生活をしていることは明白であろう。このようなキャラの捉え方を虚構世界上の存在、略して「虚構存在」と呼ぼう。ここで注釈を加えたいのは、この言葉は正確に表現するなら「虚構世界上の主体的存在」の略であり単に「虚構の存在」という意味とは異なるということだ。この虚構世界というのは決して現実にある訳ではないが、架空のものとしては確かに存在している(と考えることが可能である)。テクスト外にもホームズは存在している。ホームズがコーヒーを飲んだか紅茶を飲んだかわれわれには知覚できずとも、虚構世界においてホームズの存在は真である。平たく言えば、その登場人物には過去や思想や主体性を持っていると確信できる(その仮定に基づいてキャラを認識している)ということだ。
この虚構存在としてのキャラ観は「作中で描写されていないことも我々が知りえないだけであって決定されているものである」という解釈に留まらず、「作品外(別の物語世界)でも同一のキャラが存在できる」という感覚も生み出す。これはパラレルワールドや舞台変更といった二次創作が作成されうる理由のひとつになるが、詳しくは次項にて説明する。
さて、今度はそもそもの問題として、「われわれはなぜシャーロック・ホームズを読むか」について考えてみる。探偵小説は作者と読者の知恵比べでありゲームであると坂口安吾は表現した。もちろんそれを目的に「ホームズ」を読む人間もいるだろう。しかし、本当はホームズというキャラクターそのものに魅力を感じるから読んでいるという人間がほとんどではないだろうか。事実、作者のコナン・ドイルが歴史小説の執筆に専念するためホームズを宿敵モリアーティ教授に殺させてシリーズを終了させたところ、読者から「ホームズを殺したこと」に尋常ではない抗議を受けたという。求められていたのは謎解きや物語そのものではなく、ホームズというキャラであったわけだ。
ここでの読者の主張は「ホームズは死んでいないことにしろ」というものだ。つまりホームズは作者によってつくられた架空の存在であることを了解し、作者の都合でコントロール可能なものでしかないことを知ったうえで、なお愛着を持っている。そのため、物語の進行や作者の真意によらず読者の希望の赴くままにキャラを扱ってしまってもかまわないという態度を取っている。このことは、キャラクター自体の魅力を商品的なものとして受容・消費しているとでも表現できよう。この性質を「還元消費」と名付ける。
これは十数年前に「萌え」と呼ばれ、少し前に「ブヒる」と表現され、最近は「尊い」と称されるような情念を喚起させる、ある意味では二次元オタクが共通体験として持つ根源的な感覚だろう。しかし還元消費の先となる要素とは別段「萌え」、すなわち恋愛感情に類似したキャラへの愛おしさだけではない。「カッコいい」「ウケる」「ウザい」といった、オタクに限らない多くの人間が娯楽物語のキャラから受け取るものも含まれている。
キャラクターの単一的な性格、髪型や身体的特徴などの外見、テンプレート化された行動といった要素独立して捉えることが可能な
実在の人間が持つような多様で複雑な矛盾した心理を前提としていては、考えにくい。
※この「還元消費」自体が東浩紀のデータベース消費の転用だという指摘が予想されるが、ぶっちゃけその通りである。ただデータベース消費はコンテンツ全体の消費モデルであり、「物語消費」と対になる概念である。一方で還元消費とは上記のようにキャラへの解釈・理解モデルのひとつであり、定義の前提が異なるため新たな用語として示した。あと漢字四文字で揃えたかった。
おそらく「キャラの自立化(=物語との乖離)」という意味では虚構存在も要素消費もデータベース消費のひとつに過ぎないのだが、全く別の心理が働いていると考えられるためここでは「データベース消費」については言及しない。
(動ポモは二年くらい前に読んだっきりなんでほとんど覚えてない。テヅカ・イズ~は読んですらいない。興味ある人はwikiやはてなキーワード見てください、俺もその程度の理解しかないんで(屑)
データベース消費
https://ja.wikipedia.org/wiki/データベース消費
http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/�����顿�����饯����
)
ヴィトゲンシュタインは言語活動を「箱の中のカブトムシ」に例えた。
○3要素の整理
これらの区分の根源的な違いは、「何のためにそのキャラは存在するか」ということだ。
厳密さ
物語世界 > 虚構世界 > 還元消費
このように物語の役割から乖離し
○三要素における二次創作の位置づけ
では、上記の例を当てはめていくと、二次創作とはいったいどのような行為であると理解できるだろうか。まず「物語装置」としてキャラを見た場合、二次創作は行われない。なぜならこの立場においてキャラとはその物語作品を表現するために生み出された存在であるため、物語装置たるキャラを使いまわしながら既存の物語を捻じ曲げたり別個に新たな物語を作ることはできない。もしくは、その新たな物語における新たなキャラが創出されたにすぎない。
次に「虚構世界上の存在」の立場を考える。これは最も二次創作向きの理解モデルであろう。先ほどのホームズの例を用いるなら、二次創作者は虚構世界から「コーヒーを飲んだ世界」を見出すことも「紅茶を飲んだ世界」を見出すことも可能であり、「その虚構世界上で成り立つ範囲」においてテクスト外の新たな物語を創出できる。あるいは虚構世界の解釈を広げ、「ホームズがライヘンバッハの滝でそのまま他界し、モリアーティ教授が生き残ったホームズ世界」というパラレルワールド・ifストーリーを書くことも可能だ。この立場で重要なことは、「その新たな物語は原作と同一の虚構世界で成り立っているか」の一点である。
最後に「還元消費」についてだ。このキャラモデルも二次創作向きではある、むしろこちらの方が主流とすら言えるかもしれない。
還元し要素を追加することすらある、というかそっちのが多い
さて、つぎにこれらの公式との関わり方のスタンス
これはキャラの所在についてを踏まえると理解しやすい
○虚構存在的認識と還元消費的認識の対立
「嫌なら辞めろ」という論調は消費的な立場でしかない。「キャラはお前のために役立つものではなくなったのだろう?なら役立つ人間から奪うような真似はせずにお前が別の役立つ何かをみつけろ」
虚構に過ぎないキャラクターは現実に過ぎないわれわれのために存在する?
批判者は虚構世界の齟齬に「おかしい」と言っているに過ぎない。もしくは物語装置としての質の低さ
キャラに、あるいは作品求めているものが異なる
取るべき態度は採用する虚構世界の選択、あるいは
二次創作や公式展開におけるキャラの不一致とは、物語装置としての役割や
なぜキャラの一致不一致を我慢できない人間や関与的な人間がいるか
「だいたい会ってりゃOK
人間に本質があるという考えは傲慢
万人に共通の虚構世界が存在するというのも幻想でしかなく、結局はテクストに空白が存在する以上確実なものとは言えない
自分の内での解釈であり絶対の正解にはなりえないことをはき違えてはいけない
しかし虚構存在の取るスタンスと矛盾するため、他者とやり取りするときは上手くやらないと
俺は無理、テクスト読解による虚構世界の構築は諦めた
さようなら