菊地真解釈論
前記事を踏まえて。
次の菊地真考察に対する前提として、そもそも「キャラを考察する」ってなんでしょうね的な話。
脊髄反射の低燃費モードで書きます。
※前記事。書きかけの乱文につき超注意。
http://chaosorder.hatenablog.com/entry/2017/01/20/131905
前記事(ツイート)で提示したキャラの捉え方「物語装置」「虚構存在」「還元消費」を再利用する。
・物語装置
作品内で提示される物語(プロット)を表現するために用いられる、道具的な役割。ホームズシリーズにおけるワトソンは狂言回し、ホームズは探偵役、など。町人Aや警官Bと違って物語の進行において代替不可な存在。
物語装置としてのキャラはあくまで「作品(テクスト)で描写された箇所」でしか存在できない。また、物語の進行に無関係な属性は問われない。
・虚構存在
作品で表現される虚構世界において主体的存在として確立されているという仮定に基づくキャラへの認識。ホームズの背中にホクロがあるかどうかはテクスト上不明だが、虚構世界に存在している以上「あるかないか」自体は決定されうる、という態度。
このモデルでのキャラは「物語」による束縛を受けないため、まったくのパラレルワールドやif世界であろうと主体的に行動することが可能。
・還元消費
キャラやその行動を「ツインテール」「ツンデレ」「壁ドン」といったテンプレート化した解釈(≒萌え要素)に還元し、「萌え」「尊い」「カッコいい」などの単純なこと感情を喚起させる道具として扱う解釈。
要素に還元したためキャラの全体を捉えてはいないが、その前提を除外することでスムーズな感情喚起が行える。なお、現実世界でのキャラ的コミュニケーションや芸能人に対する見方でもこの「還元消費」はたびたび見られる。つーかいろんな本のパクリ概念。
ここでまとめると、それぞれの違いは
・物語装置→焦点は「物語」
・虚構存在→焦点は「(主体的存在としての)キャラ」
・還元消費→焦点は「消費者」 にある。
(引用:@salmonrisotto)
これに基づいて「キャラについて語る」ということ、もしくは「キャラを語るときどのようなことが読者からは求められているのか」を考えてみる。
とはいえ求められている、なんて言うと前にぼやいた「役に立つ」に関わってアレだから、「何が期待されるか」とでも言い換えた方がいいかもしんない。いや大差ないか?ま、いいや。
http://chaosorder.hatenablog.com/entry/2017/01/02/023227
これが次回の菊地真記事や皆さんのキャラ考察に役立てばいいなあ、なんて感じ。あ、「役立つ」って言っちゃった。
あと、大して菊地真の話はしない。
まず物語装置から。
これは物語(特にプロット)の巧みさに対する観点だから、とても分かりやすい。
たとえば無印の菊地真シナリオに当てはめるなら、彼女の性格や行動指針は描写されてきた一連のアイドル活動に、あるいは物語全体においてどのような意味を持たされていたと考えられるか(テーマ批評)とか。
ただこういう物語そのものに着目した批評理論やら分析美学はアホみたいに蓄積があってクソ難解だから匙を投げたくなるし、どこか語り口に体温を感じさせないからキャラ談義としては不適切で、「それの何が楽しいんだよ」と突っ込まれたら答えに窮する。ちなみに俺は楽しい。
しかも単純にそういう文芸批評を転用できるかといえば、ゲームというメディアがマルチエンディングな以上映画や小説みたいに定められた結末に至らない問題をどう捉えるかでまた議論があるらしくて、もう知らねー。ゲーム批評理論もあるらしいけど、まだよく調べてない。
とにかく、物語装置はアカデミズムで有無を言わせずぶん殴れるのが強みだけど、下手に知識不足だと逆にぶん殴られそうでヤバイ。ぼく『文学部唯野教授』以下の知識しかないんですけど。あとアカデミズムって小難しくてキモいから嫌われがちよね。でも人を遠ざける書き方ってオタクイズムを感じて大好き。
何が期待されるかに答えてなかった。新しい物語の見方、かね。たとえば無印菊地真シナリオに対し
これまでの定説では「アイドル活動により真は本当の自分らしさを手に入れる、すなちアイデンティティの確立」が物語のテーマと考えている。しかし「今まで通り命令されていた方がラク」「プロデューサーと離れるならアイドル活動に意味はない」などの言葉から、依存先をPに変えただけで自己確立にはほど遠い。過度に自分らしさを規定しようとするジェンダーフリー論へのアンチテーゼとして読み取れる。
(http://togetter.com/li/1047674 を適当に要約)
という感じ。……昨年出した俺の結論だけど、どうでしょう。賛成するにしろ反対するにしろ、こういうのが「物語装置」に求められる語り。
ちなみに、今の俺は真シナリオについてもう少しマシな結論出してる。
次に虚構存在。
実際に彼女は虚構世界に存在している(現実とは別の世界で生活している)という立場。アレだ、菊地真が生きているbot的な。
たぶんこれについて語ると喜ぶオタクがほとんどだと思う。「は?現実に生きろよ」と非オタクから冷ややかな目で見られる原因でもある。
真コミュで例えると……この考察。彼女の本心=テーマとするなら「物語装置」的でもあるけど、その辺はご容赦ください。
嵐の中、真が新発売人形の着せ替え衣装を買いに行った話。まあいつもなら「ふーん、中身のないコミュだな」で終わるが、今回は季節の仕事。Cランク以上じゃないと発生しない…つまり、ある程度の信頼関係がPとの間に築かれているなかこのコミュが発生したことに注目したい
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
真は嵐の中事務所を飛び出した目的をなかなか明かそうとしていなかった。つまり着せ替えドールの趣味をあまりPにも積極的に教えようと思わなかったためだろう……それはなぜ?
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
少女漫画趣味はむしろ積極的に明かされている。人形趣味も女の子らしいものとして、Pに教えてもいいのではないだろうか?
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
第一に思いつくのが「子供っぽい」と思われたくないから。これは買った人形のタイプにもよるだろう。バービーやリカちゃん人形であれば確かに幼い子向けではあるだろうが、オタク界隈でも一二を争う「沼」のドールであれば……
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
しかし興味のない人間には、どちらも「子どものもの」と映るか。
だが「子供っぽい」と思われたくないのであれば「最近の人形って結構よくできてて〜」というような弁明をするようにも思う。そうでなくてもプロデューサー自体は「意外」としか思っていない。おそらく違う理由だろう
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
ここからはかなり推測の域に入る。少女が着せ替え人形で遊ぶ手法の代表例は「ごっこ遊び」、すなわち自己投影だろう。可愛い・綺麗な衣装を自分の代わりとして人形に着せて満足する。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
単に「かわいいもの」として人形を愛でている可能性も十二分にあるが、ここでは検討しない
もしも人形遊びが「自己投影」だとすると、どのような説明がつくのか。自分の代わりに人形にかわいい衣装を着せたい、つまり「自分はかわいい衣装を着たいのに着ることができない」と真は考えていることになる。そしてそれは、女性をターゲットに置いたプロデュース方針と真逆のもの
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
彼女はこのプロデュース方針に現在ではある程度納得もしているし、「男らしさ/女らしさ」という枠組みが気にならなくもなってきた。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
しかしそれでも、「かわいい衣装」への憧れはあるのだ。
もしもこの本心がプロデューサーに知られてしまえば落胆するに違いない……そう思い、彼女は(不自然になりすぎない程度に)人形趣味を隠そうとしたのではないだろうか。
— しゃけぞう (@salmonrisotto) 2016年11月12日
Pとの絆が出来上がったからこそ、隠したい心もあるということだ(了)
こういう、キャラが何を考えているかとか、この行動にはどんな意味(≠物語役割的意味)があったのかとか、そういうのを考える語りが求められている。
考えてみれば、「あのキャラのことがもっと知りたい」という感情はウブな恋愛みたいで素敵だね。ガチで恋愛してたら引くけど。モイキーモイキー。
もしくは、菊地真はどうすれば幸せになれるか(あるいはトップアイドルになれるか)という可能世界について想いを馳せるのも「虚構存在」的だね。どんな衣服や方針でなら彼女は輝けるか……うーん、まさしくプロデュース。ただし、「虚構世界の中で」という制約つき。
現実に波及して「どうすれば彼女の魅力が他の人に伝わるか」と考えることは、次に挙げる「還元消費」とかなり似通ってる。
参考にすべきなのは、文学理論より心理学とか社会学とかそういう現実の人間に当てはまるような分野。心理学や社会学だってたいして現実に即してないだろって?そこには目を瞑ってさ。
最後に還元消費。
「菊地真はどうすれば(どうして)可愛いのか」というもの。ぶっちゃけ一番やってて楽しい会話なんじゃない?ただ「議論」には向かないよね。感情モデルだから。アイマスPの「アイマス最高」、ガルパンおじさんの「ガルパンはいいぞ」、としあきの「アオいいよね」「いい……」である。
http://www.mangajunky.net/blog-entry-5301.html
この語りにおいて必要なのは肯定。「あのキャラのこういうとこいいよね」「わかる〜〜」である。互いに分かってるなら話す必要ねーだろ、と苛つくは俺と同じダメなオタクなので反省しよう。
もしも菊地真がロングヘアーだったら?幼馴染だったら?妹だったら?妄想は尽きない。だが、そこでいつか
「それは菊地真である必要はどこにあるんだ?」
という問いが襲いかかる。
別に「菊地真」とは記号でしかないけれど、名前が同じならそれは全て「菊地真」なのか?と言う訳で。そこにNOと言えないのがたぶん還元消費の限界。
しかし、別に他の解釈の方が高尚という訳でもない。感情を否定すればコンテンツや文化にはなにも残らない。
芸術の批評理論はコンクールで賞を取る作品を決めるために編み出されたものだそうだ。そりゃ最優秀賞を「全員が『いい……』と呟いたから」なんてふざけた理由にしたら他の参加者にぶっ殺される。「なぜ価値があるか」が説明できなければ、価値なんてないのと同然だ。
ただしそれは批評家たちの理屈であって、鑑賞者の態度ではない。鑑賞者は「いい……」と言えればいいのだ。
たとえば、素敵な絵がTLに回ってきたとして、「この構図がこうなっててこういうタッチでこういうモチーフがあって、だから優れている」という見方と「かわいい!すごい!RT!いいね!」とどっちが普通だろう。絵師でもなんでもない俺は全て後者だ。快い感情を喚起させる絵についてゴチャゴチャ考えたくないし、それによって快が失われる危険性すらある。
「いいよね」「いい……」のやりとりに至った人達は、語ることの不毛さに辿り着いてしまったのかもしれない。「こう考えることで魅力がより深まる」と指摘されても、原初的な喜びとは別の形でしかない。
これで単に「キャラについて語る」といっても多様な態度があることを示せたと思う。ここからは俺の話、というか次の記事について。還元消費はいけすかない。虚構存在も大嘘だ。だから、「物語装置」の態度で菊地真の研究を終えたい。これだけは信頼できる、というかこれしか信用できない。
答えが虚構だから答え合わせなんてできやしない。だったらフィクションをフィクションという前提でしか見ることが出来ないのは当然、気づくのに4年かかったけど。俺はもう「見立て」が出来るほどの情熱は残ってない。こんなこと言いたくなかったんだけど、次の記事には絶対持ち込まないから許してください。ちゃんと次で消えるから。
この整合性のない文章には、結論もない。
強いて挙げるなら、「なぜ語るか」について自覚的であるべきだ、ということだ。
語るという行為には、必ず相手が必要だ。その相手とは、自分と同じ意見を持つ人間なのか、異なる意見を持つ人間なのか、そのどちらにもなのか。「もしかしたらどこかにいるかもしれない、自分の考えで救われる人」のために語るのも素晴らしいことだ。
語るという行為には、必ず物事を切り取るという特質がある。何を語って何を語らないのか、どこが議題でどこを考慮に入れないのか。「全てを語る」ことは絶対に不可能だ。いくつもの問題を混ぜて語ることは望ましくない。
自戒を込めて。