ムチツジョチツジョ

思考は無秩序 言葉は秩序 趣味と股間は無節操

物語の読み方指南

以前身内向けに書いた文を発掘したので少しだけ弄って再利用。
ところどころアレだけど悪くはない。
気がする。


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 エラそーなタイトルで申し訳ないです。皆さん、物語は好きですか? ぼくは嫌いです。ごめんやっぱ好き。でも嫌い。本当は大好き。
 皆さんもたぶん物語は大好きだと思います。これを読めば皆さんの物語ライフがより豊かなものになる……とは限りませんし、むしろ悪くなるかもしれませんが、とりあえず聞いていただけると嬉しいです。

◾️おしながき◾️
・作品とテクスト
・物語と虚構世界
・批評と考察
・ストーリーを信用するな



◾️作品とテクスト◾️
 いきなりですけど、物語って誰のものだと思います? 長らくは作者のものと考えられてきました。つーか著作権的な意味でもそうですね。ただし、俺の解釈では著作権ってのは親権みたいなものであり所有権とはまた別の問題なんです。そりゃ「自分が産んだ(作った)」と騙ることは許されませんが、「この子(作品)には誰も近づけさせない、この子もそう考えているはずだ」って主張は本当に通るんですかね、的な。ちょっと違うか。
 話を戻すと、「物語は作者のものか?」という問題について。分かりやすいのはニュー速板の名スレタイ「数学の面白さは異常 文系は永遠に作者の気持ちでも考えてろよ」ですね。
 これはよくある誤解で、マトモな文学研究では作者の気持ちなんて考えません。これは1960年代にロラン・バルトが提唱した「作者の死」ってヤツです。
 ざっくり説明すると「物語は作者によって意味づけられたものではないのだ」という話。たとえ野坂昭如が『火垂るの墓』を書いたときの心境が「締め切り間に合わねえ」だったとしても、作品から反戦のテーマを読み取ることはなんら間違ってないんです。藤田和日郎が直々に否定しようと、評論家が「『うしおととら』は科学万能主義へのアンチテーゼ」と堂々と言っても構いやしないんです。なぜなら「そう読み取れる」ことを否定する権利は誰にもないから。そして、作者が本当に作品のことを全て理解しているわけでは決してないから。言語表現が情報伝達の手段として不完全なため、その「揺らぎ」や作者の無意識を加味すれば多様な解釈が生まれるのは当然なのです。
 そうは言っても「作者」がなんらかの意味を作品に込めることはよくある話。と言うわけで、物語に対してこのような分け方をしておくと便利なことがあります。
 「ある作者の意思によって作り出されたもの」を<作品>と呼びます。
 「作者の持つ文脈から完全に切り離されて存在するもの」を<テクスト>と呼びます。
 近現代の文学批評の基本はテクスト批評です。ポスト構造主義批判のように社会や個人と結びつけること自体が目的なら別ですが、純粋な物語批評は作者と切り離して行われなければならない、ということは覚えていただけると嬉しいです。
 さて、批評ならいざ知らず、フツーに物語を楽しむときにこの考えがどう関わるのか。答えは簡単、「作者が人間の屑だったとき作品まで嫌いにならないための心構え」です。
 ジョンは前妻との家庭をぶっ壊しといてラブアンドピースを叫ぶガチ屑ですが素晴らしいミュージシャンです。啄木は借金を踏み倒し女遊びに明け暮れる救えない人間ですが美しい歌を詠みました。会社のアイツはムカつくかもしれませんがアイツの意見は建設的なので採用しましょう。テクストは人格とは切り離して評価しなければならないのです。
 ……ただ、作家論はスキャンダラスで俗っぽいとこがむしろ面白い、という言説もよくあります。その辺にどういう立場を取るかおまかせします、ちなみに俺は嫌いです。

◾️物語と虚構世界◾️
 ほんっとーーによく誤解されるのですが、物語と虚構世界は別物です。「物語にはノンフィクションの小説も含まれる」と説明すればとりあえずは伝わるでしょう。しかしこれでは「物語⊃虚構世界」という構図に捉えられてしまいます。じゃあ物語とは、虚構世界とはなんでしょう。
 虚構世界とは、現実世界と対比される架空の世界のことです。これは当たり前ですね。ただ、「現実世界と同様にそれ相応の原理に基づいて時間的・空間的に存在していると仮定できる」と考えてください。なんのこっちゃ分からん人は「奇面組は僕らの心の中にきたんだ」的な認識でお願いします。「存在する/存在しない」は重要じゃないんです。
 さて、では物語について。定義はやっぱり難しいんですが、俺の考えでは、物語とは「世界の理解の枠組み」です。例えば漱石の『こころ』にて説明します。あの物語は「私」と先生が出会い、先生の過去が遺書によって語られるところまでが描かれています。「私」はおそらく先生が死んだ後も人生を続けていくでしょう。そして先生に出会う前にも様々な体験をしてきたはずです。しかしそれは『こころ』という物語の中で描かれることは一切ありません。『こころ』という物語は、あの虚構世界の一部分を切り取って編集したものでしかないのです。これを現実世界に当てはめると……というのは、最後の章で。
 この虚構世界と物語を区別することは、物語を楽しむうえでどう役立つか? 役立ちません。ただし、人文系の学者さえよく間違えます。海外のメディア論の学者とかも平気でやらかしてます。物語が現実世界に及ぼす影響は〜だなんて言っといて、論点は虚構世界についてだったりすると矛盾がポロポロ出てきます。インチキくさいWebメディアで怪しげなコメントしてるしょーもない社会学者とかがこれをゴッチャにしていたら、思いっきりバカにしときましょう。

◾️批評と考察◾️
 さて、いよいよ物語の読み方についてです。長らくお待たせしましたが、大してタメになること言わないと思います。まず、物語の楽しみ方には4種類あると俺は考えてますが、もっと大きく分けると2種類です。ズバリ! 考えるのと考えないのです。……いや、マジっすよマジマジ。石投げないで。
 ぶっちゃけド派手なアクション映画とか感動ファミリードラマとかに脳ミソ使いたくないじゃないですか。最近流行ってますよね、けものフレンズ。アレとか脳を使わないものの代表例ですよ。いや使ってる人結構いるんだけど。ああいう「すごーい!」「たのしー!」でさっぱり終われる娯楽って実はもの凄く貴重なんで、大切にしてください。
 でもそれでは終われない、もっと何かを得たいと考えてしまう人がいます。三文字で表すとオタクです。じゃあその「何かを得る」ってのはどうすればいいかというと、言葉にするしかないと思います。言葉にするってのはまた新しく表現し直すってことと同義で、言語化することで考えが整ったりまとまったり繋がったりする訳ですね〜。言葉サイコー。
 話を戻しますが、じゃあその「言葉にする」にしたって何を言葉にするかを悩む訳ですよ。最初の「すごーい!」「たのしー!」を丁寧に言語化することを「印象批評」って言います。『文学部唯野教授』によれば、日本でこれが許されるのは圧倒的な教養により文章に説得力を持たせられる小林秀雄ぐらいだそうです。しかしこの印象批評、ある人の「すごーい!」とまたある人の「すごーい!」は同じ作品について語っていても個々人の感情でしかないため、議論は不可能です。
 じゃあ次はどうなるかといえば、「どんなテクストからでも読み解ける共通言語を持ってこよう」と考えることになります。たとえばAという言い回しによりこのフレーズが強調されるとか、Bの文体を使うことで非日常的な文章世界が生まれるとか、Cという物語の組み立て方や言語の使われ方があるからこんな解釈が出来る、とか。これらはそれぞれ「ニュークリティシズム(新批評)」「ロシア・フォルマリズム」「構造主義」なんだけど、面倒なんでまとめて「構造主義」って呼びます。ちなみにこんな風にまとめたら文学評論家からはガチ説教されるから皆さんはやめましょう。
 要するに、物語を数学の公式に当てはめるように考えるのが構造主義。でもそういう風にテクストをバラバラに解体すると物語のダイナミズムが失われるような気もします。しかし何より、「この公式によりこの一節にはこんな効果が生まれる」までならともかく、「だからこの物語はこんな解釈ができる」に至る論理接合が実は相当に怪しかったりします。科学の皮を被った宗教だなんても言われたり。…….あ、これはあくまで「文学理論における構造主義」への批判ですよ。社会学における構造主義は信頼していい、はず。
 さて、構造主義は徹底的に公式化することで「すごーい!」と思う主体を消去した訳ですけど、「なにがいえるか」という解釈までは打ち消せませんでした。それすらも打ち消して真っ白にして、「テクストには唯一ひとつに限定される意味なんてない!あるとしたらお前らのイデオロギーの押し付けだ!テクストで自由な解釈して遊びまくれー!!!」と開き直ったのがポスト構造主義ですね。なんかこう書くと最悪ですが、反全体主義、反差別主義、反例外主義などの「強権的思想に囚われない」という目的があったのです。ポスト構造主義フェミニズム批評や精神分析批評にも繋がっていく訳ですが、まあご想像通り「テクストからいかにして自分の主張に持っていくか」って魂胆が見えてあまり好きな理論ではないです。
 「印象批評」「構造主義」「ポスト構造主義」この3つの動きが主な文学批評理論の流れです。本当は「構造主義」のとこを5つぐらいに分ける必要あるんですけど面倒だからパス。では最後に、これまで紹介した理論なんかよりずっと馴染み深いものをお話しします。名前を「透明な批評」と言います。これは「作品世界と読者の世界との間に仕切りが存在しないかのように、テクストのなかに入り込んで論じるような方法」です。(『批評理論入門』より)
 例えば海外の評論で『フランケンシュタイン』を題材に、博士の弟は本筋に関わらないまま行方が知れなくなったがどこへ行ったのかとか、怪物はなぜ黄色なのかとか、そういった物語の細部をテクストの記述から暴こうとする試みがあります。……そう、実はこれ、オタクがネットでよくやる「考察」と全く同じなんです。物語の主題とか、展開とか、そういったことに左右されない(本質としてはどうでもいい)ことの証明をする。文学評論家からは冷ややかな目で見られそうですが、これがまたウケるんですよね。むしろ、この読みこそが「深い読み」として現代の物語受容のベースになってすらいます。
 ……確かに楽しいんですよ。俺も一時期アホみたいにやってましたし。でもこれって、本当に物語を読んでることになるんですかね。前節で言った、「物語と虚構世界」を思い出してください。この透明な批評のやってることは、虚構世界の探求に過ぎないんです。これに気づいたときふっと虚しくなって、俺は透明な批評を真剣にやるのはやめちゃいました。でもあんまり好きじゃないジャンルになら、ときどきやると思います。

 まとめると、物語の読み方はだいたい

 ・印象批評
 ・構造主義
 ・ポスト構造主義
 ・透明な批評

の4つに分けられると思います。どれも一長一短なので、自分の一番楽しめる見方が一番だと思います。

◾️ストーリーを信用するな◾️
 長引いた話もこの節で最後です。「現実世界を物語の枠組みから見ること」について。
 「ポスト真実」って言葉知ってますか?客観的事実よりも「それっぽさ」や「分かりやすさ」を人は信じたがり、デマやプロパガンダの影響をホイホイ受けてしまうって話です。去年オックスフォード大が「今年の英単語」に選んでました。

※素敵な記事
「ニーズ」に死を:トランプ・マケドニアDeNAと2017年のメディアについて
http://wired.jp/2017/01/03/needs-dont-matter/

 さて、俺はこのポスト真実の正体は「物語」だと思ってます。前々節で言った「物語は世界の理解の枠組みである」って話。物語というのは、出来事の直接の連鎖を説明し、頭からケツまでの流れを自然なものであるように思わせる行為です。実際の世界に存在する色んなものを省いて、その論理構成だけを提示する。そうすると人は、ちょっとやそっとの「余分なもの」のために納得した一連の出来事を否定できません。本当は、その「余分なもの」の方が大事なのに。
 最近、この物語のグロテスクさや暴力性を思い知らされる漫画を読みまして。『ど根性ガエルの娘』というエッセー漫画です。とりあえず、1話と15話だけでいいんで読んでください。
http://www.younganimal-densi.com/ttop?id=78
https://manga-park.com/title/89

 この作品は、11話から発表媒体が変わっています。だから15話で「こんな話」が描けたんでしょうね。これはノンフィクション漫画です。伏線や演出のためにあの1話があったんじゃなくて、「父や編集からの圧力のためあの1話にせざるをえなかった」と考える方が自然でしょう。
 俺がゾッとしたのは単純に「家族問題が解決したのはまやかしだった」という本質ではありません。この恐怖は「本当は15話のような惨状がありながら、なにひとつ嘘をつかず1話を描くことができる」という物語の持つ力に対してのものです。
 読者は「家族の再生物語」を望んでいる。本当は未だに作者は父や母からの呪縛に苦しめられているけれど、それを「物語」なら覆い隠すことができる。読者はそれを「真実」だとみなす。
 TVやTwitterで「スカッとする話」が出回ってますが、それが真実かどうかなんてどうでもいい。綺麗にオチがついて、自分の持つ属性に都合のいいことが主張されてて、ああ楽しかった、えっお前なにマジになってんの、お前みたいな少数派が傷つこうと世間は興味ねぇよ、的な。書いてて吐き気がしてきました。
 あっ、そうそう。「物語は暴力的だ」と主張しましたが、フィクションとデマを混同されると俺は怒ります。フィクションは虚構世界での真実。デマは現実世界での虚偽。しかしデマも物語の構造を持ってるからタチが悪いんです。

 分かりやすさのために様々なものが削がれるといえば、身近なとこでいえばプレゼンを思い出します。上手いプレゼンのやり方でググれば「ストーリーを使え!」という記事が腐るほど出てくると思います。
 プレゼンの目的って何でしょう。自分の主張を理解し納得してもらい、同意させることですよね。「ああでもない、こうでもない」という検討の隙を与えてはいけません。だからストーリーは強力なんです、有無を言わさず真実であるように思わせるから。ストーリーとはいわば、情報のベルトコンベアーなんです。

 話を変えましょうか。皆さん、純文学読みます? 面白いと思えます? 俺はあんまり読みません。たまーにトライするけどいつも途中で挫折してます。なぜって、別にストーリーが面白くないじゃないですか。どうせプー太郎が不倫して破滅して一から出直す内容ばっかじゃないですか。でもそれでいいんですよ純文学は、きっと。
 純文学は大衆小説と違って芸術作品であり、文字表現を用いて新しい表現を開拓することこそ使命である……なんて言説をネットで見ました。確かにそういう側面もあると思います。ただ俺にとって、エンターテイメントと異なる存在としての「文学作品」ってのは、多様な解釈が可能な物語を指してます。
 筋書きは単調かもしれませんし、善人なんてどこにもいないかもしれませんし、結末がスッキリとしないかもしれません。文学で表現されるのは、「物語の枠組みで切り取った」というにはあまりに生々しく、矛盾を大量に孕んだものです。つまり、分かりにくい。だから面白くないんですよ。続きも気にならないし。しかしそれでも作品の存在意義は誰にも否定されず、多様な読みを許容する。単一的に消費して終わるものではない作品は、俺にとって全部「文学」です。

 多様な読みを許す文学、一つの解釈を絶対に伝えるプレゼン的物語。後者の思考は本当に役立ちます。でも俺は息が詰まりそうです。合理性でぐるぐる回る社会に脳みそをやられてしまった俺は、やっぱり「分かりにくい」文学に一番心を惹かれるのでした。おっと、読めるかどうかは別ですよ。
 そんな訳で俺は、物語を信用しないし、物語が大嫌いで、物語が大好きなんです。

 最後に、漱石の『草枕』の冒頭の一節を。
あまりにも有名ですが、やっぱ大好きなんで。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 100年前にこの世の生きづらさを表現した人がいたってことは、結構幸せなことなんじゃないかなぁと思います。


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感想
自分でも言ってるけど構造主義の下りは雑すぎて笑うし定義もなんか違くない?
学術モドキのとこは話半分で聞いてくだしあ

あと当時はけもフレをちゃんと見てなかったから茶化し気味に書いてる
実際は「いかに視聴者にストレスを与えないか(あるいは誰も傷つけることなくドラマを作るか)」について気を回して見るととんでもない名作だと分かる
「すごーい!」を視聴者に言わせるために費やす努力は脳を使わせる物語以上に必要だったりするしね