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ムチツジョチツジョ

思考は無秩序 言葉は秩序 趣味と股間は無節操

アイマスと批評と物語とプロデュースと

なんか「アイマスには批評が必要だ!」って記事が炎上してた。ブコメ見ると流石オタクおっさんの巣窟はてなって感じで、アイマスに一家言ある人たちがわらわら集まってて地獄だった。Twitter検索してもやっぱり地獄だった。こわいなーとづまりしとこ。


言われてることはだいたい

 ・批判されたら記事消すとか言いっ放しかよ
 ・過去に散々批評はされてきた
 ・批評はコンテンツを育てない
 ・アイマスはリニアな物語ではない

ってとこだと思う。


一番最初はホントありえない。「多様な意見を募ってアイマスを活発化させよう!」とか言っといて自分への批判意見は許さない(相手の読解力のせいにする)のはどうしようもない。こんなもん自分の意見を一方的に言いたかっただけでしょ。ゼロ年代系の人ってこういうの多いから嫌い。

だから人の話を聞かない人間なのは想像に難くないし、たぶんふたつ目のも自分の意見だけで突っ走った結果だろうね。他のプロデューサーのは「批評」じゃなくて「感想」だ……とかめっちゃ言いそう。

さて偏見はともかく。この筆者が無責任だからと言って主張内容まで否定するのはダメだよね。テクストと作者を切り離して考えるのは批評の基本だからね。

 

 


みっつ目の「批評はコンテンツを育てない」だけど、これも俺は同じ意見だね。ただ、ここでの「批評」ってのが作品論と文化論がないまぜになってる気がしてならない。だから「アイマス作品への批判意見」と「アイマスに関する批評・議論」っていう別の次元の論点が同レベルで語られてて、そこで混乱が起きてると思う。

例えば「2での伊織・あずさ・亜美・律子のプロデュース不可は失敗だった。次回作からは改善するべき」ってのが批判意見。これはシリーズ化されてる商品としてあって当然。公式にそれを伝えれば、要望が通るかもしれない訳だし。アイマスは芸術作品じゃなくて商品だから、企業に顧客の意見を伝えてフィードバックを望むのはなにひとつとして間違った態度ではない。これはコンテンツの存続に関わる。

関わる、けど。さんざん9.18で議論された結果「不平不満を言っても無駄かもしれない」という諦めムードが漂ってるように思う。それで今の「いま楽しんでる新規にイヤなとこ見せてアイマスから離れられるよりは、自分の楽しめるものへの肯定的意見だけ言い続けた方がマシかも」って空気に繋がったんじゃないかな。公式への批判意見言ったら煙たがれるヤツ。

たぶんこれがあの筆者が言ってた「新陳代謝の必要性」だと思う。つまり、保守的だから批評が求められているんじゃなく、批評に疲れて保守的になったんだと思うよ。

……あれ? あの記事でも似たことは言ってたはずだね。どうやらあの人にとっては「否定的反応≠批評」みたいだからよく分かんない。
絶対的に正しい批評がこの世に存在し、かつアイマスではそれがなされていなかった、とでも言いたかったんだろうか。まあいいや。


そういう作品への批判意見に対して、「アイマス美少女ゲームの系譜から見るとこのようなコンテンツであると評価できる」とか「アイマスプレイヤーの心理にはこのような社会情勢が現れているといえる」とかやってるのがアイマスへの批評。
もちろん作品の魅力を伝えるタイプの批評も数多く存在するけれど、あの記事の作者が望んでたのはゼロ年代系のポストモダン入った社会論・文化論的なヤツだと思う。

これを読んで価値を見出せるのはアイマスユーザー全体じゃなくアイマス批評界隈だけ。批評が閉じたコンテンツなことは、東○紀だの宇野○寛だのが実際のオタクコンテンツに与えた影響は皆無であることから分かるだろう。思想や批評は、その批評コミュニティのためだけにある。そりゃコンテンツとは無関係に決まってるよね。

言っておくけど、俺は思想や批評が大好きだよ。ただし、自分が語ることで社会が良くなるなんてこれっぽっちも思ってない。自分がやってて楽しいから勉強してる。ものごとの構造を知ることでより色んなことについて考えられるような気分になれる。自分の快楽だけのために勉強してるつもり。そんなんだからニートなんだね。


なんの話だっけ。まあこれで「批評はコンテンツを育てない」については説明できたよね、たぶん。やっと最後の「アイマスはリニアな物語ではない」についてだ。これが言いたくて書きはじめたつもりなのに前置きがめっちゃ長くなった。

まず「リニア/ノンリニア」について。これはゲームのストーリーテリングでよく話題になる話だね。DQやFFとかのJRPGに代表される一本道のシナリオか、SkyrimFalloutみたいな洋ゲーRPGみたいに自由度の高いシナリオか。

記憶で書くけど、あの記事では「765ASの物語は二人三脚のアイドルプロデュースという決まり切った物語を繰り返す単調なもの。一方でシンデレラはエピソードの集合体でありノンリニアな物語である」と言ってた。
そして結論は「このアイドルプロデュースの構造を変えない限り765ASは飽きられる」という主張。

それに対して「アイドルとの断続的なコミュを繋げてひとつのストーリーにするのが無印だった」「シリーズで異なるのは個々のエピソードだけでなく全体のテーマもである」などの批判がなされてた。

とりあえず、ここでの論点は「765ASの展開はリニアかノンリニアか?」にしよう。
怒られそうだけど俺の意見言うよ。


……いや、そんなんどっちの面もあるでしょ。


さて、個人的に「リニア/ノンリニア」って用語は好きくないんで別のを使うよ。これまたゲーム業界では人気ワード、「ナラティブ」さ。

ナラティブってのは「プレイヤーひとりひとりが体験する自分だけの物語」を意味する。
詳しくはこれをどうぞ。

CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ? 明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート - 4Gamer.net
http://www.4gamer.net/games/999/G999905/20130827028/

要するに、ときメモで好きな子と付き合うことになったらその子の成績が落ちて自分のせいじゃないかと気にしちゃうとか、デモンズソウルが難しくて苦戦したけど上達してクリアしましたとか、ワンダと巨像の想像を掻き立てる世界観に物語を見出してしまうとか、そういったもの。
これらはシナリオライターが実際に書いた物語(以下ストーリーと呼ぶ)じゃないけど、確かに物語的である。それがナラティブ。と言うわけでアイマスをストーリーとナラティブに分けて考えてみる。


まず、ストーリーとしてのアイマスについて。
確かにプロップの物語類型に当てはめるならアイマスは単調かもしれない。でも「プロデューサーが少女をトップアイドルにする」って物語内容の構図は765ASどころかデレもミリもsideMも同じじゃねえかって感じ。
つーか物語(り)の構造なんて言うならせめてジュネットを持って来いやって俺は思うけどね。プロップは内容しか見てないし昔話やハリウッド映画みたいなものにしか使えなさそうで嫌い。ごめん実は詳しくない。

物語のテーマが異なるかってのは、正直2もOFAもPSもやったことないし箱だって菊地真以外マトモにプロデュースしたこと一回もないからノーコメントで。でも周りのプロデューサーを見てたら、ちゃんと作品ごとに違うテーマがあるって言ってるし、俺もそうだと思う。第一それぞれの少女がアイドルを目指す理由だって異なるのに全部ひっくるめて「少女がトップアイドルになる話」と呼ぶのは乱暴すぎるよね。


次にナラティブとしてのアイマス
どのコミュを選択したか、レッスンやオーディションに成功/失敗したか、それは運だったのか実力だったのか。これはプレイヤー個々人の体験であって全てのプレイヤーが共通して受容する物語ではない。これをゲームプレイヤー達は「プロデュース」って呼ぶのかもしれない。

さて、この「ナラティブ」って概念だけど、実は結構キナ臭い。定義づけがフワッとしてるし、そもそも「ナラティブ」なんて概念海外に存在しないらしいとまで言われてる。
これについての詳細研究があるよ。めっちゃ面白いし分かりやすいけど学術研究だからちょっと覚悟してね。

ナラティブを分解する
https://researchmap.jp/mu8ak0t5d-1918131/?action=multidatabase_action_main_filedownload&download_flag=1&upload_id=97887&metadata_id=107646


アイマスにおけるプロデュースをこれに当てはめると、「プレイヤーについての物語」ということになる。そして、プロデュースによる物語の正体は「虚構行為のシミュレーションの意味づけ」な訳だ。
分かりやすく言うと、ナラティブ(プロデュース)で得られるのは物語じゃあない。ゲーム内での出来事・体験を物語っぽく感じ取ってるだけなのだ。
だから「ノンリニアな物語」って言葉は使いたくなかった。物語は初めと終わりが存在する一本の線で、いくつにも分かれていたり自由が与えられているように思えるところは「体験」だと俺は考えているから。

もちろん、「だからプロデュースとは錯覚に過ぎないのだ!!!」なんてことは言ってない。ただ、作品が内包している物語(ストーリー)とは違い、作品とプレイヤーの間に存在する個人的体験がプロデュースだ。つまり、作品の外部に存在するのがナラティブ。作品の批評として語るときは「ナラティブを誘発させるシステム」についての話になる。


と言うわけで、ナラティブ(=ノンリニアな物語)ってのは体験であって物語ではない。そして、物語を伝えるメディアのうちではゲームにしか存在しない。だからあの記事の人は「プロデュース」の持つ価値をあまり見出さなかったんじゃないかな。小説や映画には詳しいらしいから、同じ枠組みで捉えようとしたんだろうなぁと思う。

確かにシンデレラに比べれば、765ASの展開には初めと終わりが結ばれたストーリーが存在する。でも自分だけの物語体験を獲得するための強力なシステムが存在する。それが「プロデュース」だ。

このプロデュースは単なるストーリーの表現手段ではなく、ナラティブの手法であり、アイドルマスターを「育成シミュレーション」たらしめるもの。それを奪ったら、アイマスはただのサウンドノベルになる。10年経っても飽きずにアイマスを支持し続ける人がいるのは、やっぱりプロデュースの原体験があるからじゃないかな、そう思うんだ。

 

 

さて、なんでこんな記事書いたかというと、俺が次こそ書く菊地真シナリオ考察は「ナラティブ」の側面をほとんど排したものになりますがご了承ください、という前置きに繋げたかったからです。
さんざん「アイマスとはプロデュースである」みたいな方向に話を持っていっておいてアレなんですけど。

だってプレイヤーの行為可能性についてまで手を広げるのは怠すぎるんだよ。結局ランクごとの真の心理の変異もロクに触れてないし。書く書く詐欺続けて本当にごめんなさい。これを集大成にしようと思うと不完全なところばっか目について書くのめっちゃ辛いんです怖いんです。何書くかは8月末から変わってないんだけど。なんで自分でハードル上げてるんだろうキッツい。

以上泣き言でした。
ちゃんちゃん。