ムチツジョチツジョ

思考は無秩序 言葉は秩序 趣味と股間は無節操

言い訳を探して/Kさんの話

最悪の日曜日が終わり、最悪の月曜日が始まる。
この日曜日がどう最悪だったかというと、月曜日との違いがよく分からないのだ。
在宅での仕事が終わったのは、出社する1時間前。それまで水曜からずっと家でカンヅメになっていた。頭をかきむしり、紙の資料を鷲掴みし、半ギレでキーボードを叩いていた。
なぜこんなに時間のかかる仕事を投げられたのか。いや、こんなご時世に仕事をもらえるだけ恵まれている。自分にそう言い聞かせる。他人からそう言い聞かされてきたから。
床に散らばる資料の山を蹴飛ばし、服を脱ぎながらユニットバスに向かう。
狭い浴槽に身を折り曲げて溜めていた湯に浸かり、大きくため息をつく。休日開始。
風呂の栓を抜いて湯を捨てる。休日終了。
ほとんど思考は働かないまま、この数年で培ったルーチンワークの通り身体は支度を整えていく。
俺はガンガンと痛む頭を抱えながら鞄を乱暴にひっつかんで家を出た。
ここで記憶は途切れている。





……気づけばあたりは暗くなっていて、アパートの玄関の前で鍵を探している。
鞄の内ポケットから部屋の鍵を引きずりだすと、俺は3歩歩いて万年床に身を投げ入れる。
あまり覚えていないが、どうやら月曜日は終わらせることができたらしい。
この息苦しさをコロナウイルスへの感染のせいにしてしまいたかったのだが、家に着いてマスクを脱ぎ捨てるとたちまち治ってしまった。

家に帰ったら体温を測るようにしている。
発熱していてほしいのか、そうでないのか、自分でも分からない。
理性的には後者だ。
復帰後に職場で受けるであろう視線に耐えられないのもあるが、なにより休んだら金が出ない。
休んだら休んだだけ、貰えるはずだった金が減る。
個人事業主とはそういうものだ。
しかし心の奥底では「休む大義名分」が欲しいとも考えている。
フリーランスが気楽だなんてのは大嘘で、振られた仕事は全部引き受けなければならない。
俺に仕事を選ぶ権利があるように、向こうは誰に受注するか選ぶ権利を持っている。
あっちは契約してる人数ぶんだけ選択肢があるが、いつだって俺は2択だ。イエス・オア・ノー。ワーク・オア・ダイ。
つまるところ、俺の返事はひとつしかない。
サー・イエス・サー。

俺はこのまま死んでいく。
そんな考えが頭をよぎった。
本当のブラック企業勤めに比べればなんてことのない環境なのだろうが、自分がつくづく労働に向いていない人間だと思い知らされる。
……それが嫌なら、俺はどうやって死ねばいいんだ?


「わたしはね、世界中の人を愛しているんだ!」


まぶしい笑顔とともに、フィクションの世界でさえ聞かないような言葉を平気で口にする彼女の姿が、ふと脳裏によみがえる。
Kさんだ。

俺はコートのポケットからスマホを引っ張り出し、彼女とのLINEのトーク履歴をザッとスクロールしてみる。
保存期間が切れていて内容の分からない大量の画像やら、読むだけで目眩がする哲学的問答やらがつらつらと並べられていて思わず苦笑してしまう。

俺は少し、彼女に会いたくなった。
なぜだろう。
こんなに疲れ切ってる状態でKさんと会話なんてしようものなら、体力を使い果たし頭痛を起こして寝込む羽目になるだろうに。

Kさんは、なんというか……とても面倒くさい人なのだ。




──────




彼女と初めて会話したのは大学2年のころで、退屈なゼミ講義のあとの休み時間だった。

「ねえねえ! さっきの講義、どう思う?」

教室から少し離れたベンチでスマホを弄っていた俺は、まさか自分が話しかけられたとは思わず彼女の顔を見て少し固まった。

「……あ、え、俺?」

そんな間抜けなことも言ったかもしれない。
しょうがないじゃないか、初対面の人間、しかも女の子から話しかけられたら俺はまず「壺を買わされる」と思い込むことにしているんだ。

「あれ? ゼミ一緒だったよね? しゃけぞう君」

彼女は「わたし、K」と名乗る。
話したことはないが、その名前と顔はよく知っていた。
滅多に人の名前を覚えることのない、この俺が。
それだけ、彼女は有名人だったのである。

彼女は美人だった。
そして、変人だった。

俺の友人に、彼女と同じクラスだった奴がいる。
Kさんは彼をあまりに親しげなあだ名で呼ぶものだから、仲間内でよくからかっていた。
そんなとき友人は決まって、心底辟易した顔で「マジでやめろ」と吐き捨てるのであった。

学問的な興味の対象が似ているのか、俺の取っている講義にはよく彼女の姿があった。
Kさんは講義中よく質問をしていた。
その内容はひどく初歩的であったり、「なんか変だと思う」「絶対おかしい」みたいな個人的感性であったりすることがほとんどだった。
そのせいである教授には「疑問をまとめろ」と嫌われ、またある教授からは質問されるだけでも嬉しいらしく可愛がられた。

彼女はどんな人間にも話しかけていた。
男女の境を作らないとか、陽キャ陰キャどっちにも優しいとか、そういったレベルではない。
怪しい学生政治団体の熱心な活動家、ミソジニーを拗らせた危ない発言を繰り返す男、普通ならあまりお近づきになりたくないような人間とも交流を持っていた。
オタサーの姫の過激版とでも表現しようか。


正直、最初の会話の内容はあまり覚えてない。
唯一記憶にあるのが、あるアニメの描写では去勢がメタファーとされている、という話を彼女から聞かされたとき「キョセイってなに?」と尋ねてしまったことだ。
もちろんそのときも意味は知っていたのだが、そのときは「キョセイ」という音の響きだけ耳に残って頭の中で漢字に変換できなかったのだ。
「えっと……おちんちんをちょん切っちゃうこと」とためらいながら彼女が口にした瞬間、俺が激しい後悔の念と希死念慮に襲われたのは言うまでもない。
しかし……しかし君、本当の童貞とはパンチラを見たときに罪悪感で凹むような人種のことを指すのですよ。解っていますか?

それからうら若き乙女にセクハラまがいのことをしたためKさんを避けていたはずだったが、その3日後ぐらいに別の講義でバッタリ会ってしまい、案の定捕まった。
「この教室は次のコマ空いてるからさー、お話しよーよ」
俺は観念した。誰もいない教室の席にそれぞれ座り、彼女の他愛のない話題にぼんやりと相槌を打つ。
……いや、「他愛のない」のは最初の十数分だけだった。
複雑な家庭事情やら自分の精神的気質やら中高時代の孤独感の話やらここに書くのも憚られる過去のトラウマやら、なぜか話はどんどんヘビィな方向へと突き進んでいく。
会って2回目の人間に、数十年来の親友にやっと打ち明けられるかどうかという身の上話を聞かせないでほしい。
思いが余って、はらはらと彼女は涙を流していた。
この距離感を盛大に測り損ねている感じに、俺は先述の友人の言葉を思い出していた。
――ああ、こういうことね。


気まずい沈黙のあと、Kさんは急にパッと顔を明るくしたかと思うと「なんかわたしが喋ってばっかじゃん! しゃけぞう君もなんかない!?」と無茶ぶりをされる。
当時の俺が、彼女の求めるような「話せること」といえば、アレしかない。

「ええと……俺……アイドルマスターってのにハマっててさあ……」

イタい。
イタすぎる。
だがあのころの俺の全て、彼女のカミングアウトへの対価として曝け出せる「なんか」といったら、このコンテンツへの感情しか残っていなかった。

二次元のキャラクターとはいえ生まれて初めて何かに本気になれたこと、オタクコンテンツが好きだと言っても恥ずかしくないように精いっぱいマトモになろうとしていること、まあそんな感じのことをあまりに恥ずかしいところはボヤかしつつ話した。

彼女は真剣に俺の話を聞いていたが、身も蓋もない言葉で締めた。

「ふーん、よくわかんないや」

いや、まあ、だろうね。
正直分かってもらえるとは思ってなかったし、一応自分なりの誠意…のようなものを見せるつもりで話したのだ。
事実、ごく親しい人間にしか話さない。
そもそも「そこそこ親しい」とか「顔見知り」程度の関係はバッサバッサ断ち切ってきたから友人が少ないのだが。

二、三噛み合わない質問をした後、俺の覚悟を知ってか知らずか、Kさんは「ねえねえ、LINE教えて!」「あと『しゃけくん』って呼んでいい!?」と唐突に更に距離を詰めてきた。
俺は「あーうん、いいよ」と流される。


彼女のLINEアイコンは、マイケル・ジャクソンの『インヴィンシブル』のアルバムジャケットだった。




──────




水曜日、ボトルコーヒーは一瞬で空になる。
エナジードリンクはクソだ、高いくせに効きやしない。そのうえ糖分の反動か知らんがガクンと眠くなりやがる。
コーヒーをひとくち含めば、5分だけ目を開けていられる。
この世で信用できるのはカフェインとアルコールだけだ。
頭が割れそうに痛もうと胃腸が荒れ切ってケツが傷もうと、やめることはできない。
止まってはいけない。

この数年間で身についたのは、小手先だけの技術と学生が一夜漬けで覚えられる程度の知識、それに満員電車に身体をねじ込むスキルだけだ。
この世で役に立つのは最後のスキルだけだというのは、言うまでもない。
だが、それが必要ないほど電車がガラガラだった時期が数ヶ月前にあった気がする。あれは夢だったのだろうか。今の情勢なんて忘れたように狭い車両内に身を寄せ合う人々を見ていると、そんな気がしてきた。俺もそのうちの一人なのだが。



「世界っていつ滅びると思う?」

書類の山を見飽きたのか、契約先の部長が俺に絡んできた。
「映画の話ですか?」
「いや、現実の話」
やばいじゃんコロナ、と彼はくつくつと笑う。
笑い事ではないが、まあ笑うしかないのだろう。
同業他社やら提携先やらはどんどん潰れていく。
奇跡的にこの企業は、そこそこ忙しくなれている。
例年と比べなければ。

「しゃけぞう君はなんでこんな仕事選んだんだっけ?」
「……なんででしたっけ」
半分冗談、半分本気でそんなことをつぶやく。

「まあ、転職するなら早めの方がいいよ。つぶしが利かない職種だし、君はまだ若いんだから」
「とりあえず3年はここを続けますよ、履歴書に書けるんで」
「……ハハハ! この仕事3年やってたからって雇ってくれる企業なんてあるわけないだろ!」
部長は心底おかしそうだった。

つぶしが利かないくせに、10年続けても新人扱いされるような仕事だ。
暗に「向いてないから早く辞めろ」と言われているのだろうか。
……いや、本当に俺が「使えない」と判断されたら契約を切られるだけだから、それはないだろう。
フリーランスという薄っぺらな社会的地位は、こういうときに役に立つ。
正社員と違って、首に重みがない。
<生産性>の一点だけで自分の価値を測れる。
「俺は必要とされているか?」について、どこまでも冷酷に判断してくれる。
この現場で最も仕事ができないのが俺であることは誰の目にも明らかであるけれど、クビにするほどではない。
それだけで、頭を撃ち抜きたくなる気持ちが少しだけ収まる。


コーヒーをもうひとくち飲む。
5分間だけ目を開けていれば、今だけ働いていられる。
世界が滅びるその日にも、俺はこんな仕事を続けているのだろうか。




──────




「どうして恋人のいる異性と仲良くしちゃいけないんだろう」
Kさんの男友達に彼女ができて、この前「もうあんまり二人でメシとか食えないから」と告げられたそうだ。

「ねえしゃけくん、恋愛ってなんなの? なんで人を独占したいとか思うの? どうして人は……」
「いや、俺に恋愛を聞かないでよ……」
彼女イチオシのタイ料理店トムヤムクンを啜りながら俺は本音を漏らす。

Kさんとは時々ご飯を食べたりLINEで長電話したりする関係になっていた。
もちろん、常に彼女からの誘いである。

――陰キャが美人に突然話しかけられ、仲良くなる。
こう書くと童貞臭のキツいラブコメ漫画のようである。
だがあの頃の俺は、生身の人間にそういう感情を抱くほど暇ではなかった。
正確に表現すると、気が狂っていた。
現実の人間関係より「大好きなあのキャラはどういう風に物を考えるのだろう」などといった夢想に一生懸命だった。

そして彼女は、アセクシュアル(アロマンティック)だ。
同性・異性問わずKさんには恋愛感情や性的感情というものが分からないし、厄介なものという認識しかない。
嫌悪感さえ持っているだろう。

「だってさ! おかしいじゃん!」
早々と自分の料理を片付けた彼女は、急に声を大にして主張した。
「人と人との関係性が不自由になることで生まれる関係性ってどういうこと? 束縛することが相手を想っていることにどうして繋がるの? わかんな~~~い!!!」
「そうねえ……」
俺は答えを探しながらゆっくりとスプーンを動かす。
エスニック料理は酸味とも辛味とも言えない味をどう表現すればいいのか分からなくて、あまり得意ではなかった。

「俺もまあ人間関係としてはかなり特殊なもんだと思うよ、恋愛ってのは。Kさんの言いたいことも分かるけど、『この人は自分を最優先してくれる』っていう契約で成り立つ、相互的な存在の肯定みたいな……。だから相手が一人であることが求められていて……」
「……それがフツウ、ってことなのかなあ」

Kさんとの会話には、よく「フツウ」という言葉が出てくる。
おそらくこの「フツウ」というのは、彼女が憎悪し、かつ何よりも羨望した対象である。
どうして自分は周囲と馴染めないのか――毎晩必死でその日の会話内容をノートに書き綴ったという高校時代の彼女の姿が、まるで目に浮かぶようだった。

その日の「おしゃべり」は店を出てからもスタバに移り、ドトールに移り、たっぷり6時間は続いた。
俺は脳の使い過ぎか頭が痛み始め、終電近くになりギブアップ。
彼女を一人暮らししているアパートまで送り届けて別れたあと、俺は体中の空気を吐き切るようなため息をついて駅に向かった。
仲間内でホテル代わりにしている友人の家は近いが、流石に0時近くにチャイムを鳴らすのは気が引けて家に帰る。
母を起こさないよう抜き足で玄関から自室まで進み、歯を磨いてベッドにもぐりこんだ。
Kさんから「いまヒマー?ご飯たべよー!」というLINEメッセージが来たときの一日は、だいたいこんな感じである。


彼女の話題は決まって「愛とは」「精神とは」「孤独とは」「正しい生き方とは」といった形而上学的なものだった。
俺が「Kさんと会話してると頭痛がしてくるんだよ、比喩とかじゃなく」とふざけ気味に(しかし切実な思いとして)口に出すと、彼女は「え~わたしはぜんぜんそんなことないけどな~! ふだん頭使ってないんじゃない? あはははは!!」なんてのたまうのである。
ぶっちゃけ彼女の発言は整理されていない思考を発散するようなやり方であり、一方俺はローソンで「からあげクンください」と言うだけでも事前に綿密なシミュレーションを必要とする低スペック人間だ。そのため、いちいち彼女の発言を咀嚼・再解釈し、それを伝えた上で自分の考えを付随するという大変労力のかかる会話をしていた。
「いや~わたしって人と会話することで考えがまとまるタイプでさ~!」
それ、たぶん会話相手が考えをまとめてくれてるんだよ。口には出さずツッコむ。
とはいえ、こんな高2病の抜けきらないような問答がそこまで嫌いではない俺は、別にLINEをシカトしたりすることもなく彼女に付き合っていた。
しかし、彼女の方は? あれだけ顔が広いのだから、議論のサンドバッグは俺じゃなくとも他にいくらでもいるだろう。

「しゃけくんは面白いよ」
いつものように駄弁った(飽きたのか後半はハンタの話ばかりだった)あと、夜の大学講堂近くを歩きながら彼女は言った。
「なんていうか、自分の言葉って感じがする。誰かの言ったどっかで聞いたことのあるようなのじゃなくて、ちゃんと考えて話してる感じ」
「Kさんが知らないだけかもよ。俺の発言なんて、ネットのパクリばっかさ。誰でも同じようなことは言える」
「……えー、そうなのー?」
彼女は訝しげな顔をする。Kさんはインターネットをすこぶる嫌っていた。一方俺は、知能と感性の9割を匿名掲示板で培った人間だ。

「うーん……違うと思うな、やっぱ」
Kさんはなにか気づきを得たようで、考えながらゆっくりと話す。
「わたしが好きな本や音楽の思想の話をしたら、しゃけくんが興味のある知的領域圏にあるネットやメディアに移って展開していく。わたしがあまり持っていなかった観点から問題を捉えることで知見が開かれる。つまり、自分の領域が他者によって開かれていく、自分の世界が拡大していく……そっか、コミュニケーションの面白さってこういうことだね。再確認した」
「……ずいぶん話が壮大になってきて怖いんだけど」
つい茶化す。俺の悪い癖だ。

「いやさー、話していて面白い人とつまんない人の違いってなんだろうなーって最近考えててね。やっぱこういうことだよ。自分と他人の違いに興味を持ち、自分を拡張させる。あらゆることに疑問を持って、立ち止まる。そういう人だよ、しゃけくんは!」
人からこうも褒められるのは、本当に久しぶりだ。心がじんわりと暖かくなる。
「ええと……ありがとう」
お礼の言葉というのも変だが、もう少しなにかを伝えようとしたその矢先、Kさんは独り言のようにつぶやいた。

「でもさー、こういうタイプの人間は社会でやってけないよね」
「ウッ」

不意打ち気味に強烈なボディブローをもらい、思わずうめく。
書き忘れていたが、この時は大学4年の8月。
とっくのとうに就活シーズンは過ぎているというのに、二人とも内定の「な」の字もなかった。




──────



金曜日……ああ、金曜日だ。
やっと純度100%の金曜日が来た。
先週の金曜日はまがい物だ、その次の日に土曜日が来なかったからな。
おまけに日曜日までなかった。

帰りがけ、部長はニヤリとしながら「じゃ、来週も逃げずに来てね」と言った。
俺はそのジョークをあえて無視し、にっこりと笑顔だけ返し「お疲れ様です!」とその場を後にした。
ささやかな抵抗をしてはみたが、どうせ月曜になれば職場に行くのだろう。


どうにも酒を飲む気が起きず、近頃めっきり足を運ばなくなった立ち食い蕎麦屋に行った。
前ならコロッケそばがお決まりだったのに、無意識のうちに一番高いカツカレーセットを頼んでいた。
収入はあの頃とどんぐりの背比べのはずだが。
いったい俺はいつから200円ぶんも偉くなったのだろうか。


……Kさんの話の続きをしよう。


こんな体たらくでも一応就職を希望していた俺は、自宅の6階の窓から飛び降りるギリギリの精神状態を保ちながら仕事の就き方についてアンテナを張っていた。
そうして見つけた、とある就職イベントについてKさんに話した。
内容は「現在の日本の就活制度はおかしい」「もっと自由に会社とマッチングできるべきだ」といった思想に基づく、少し特殊なものだった。
……いや、大半の企業が内定を決めるシーズンを大きく外している時点で特殊なのだが。
Kさんはといえば、まあKさんなのだから、「就職ってなに」「社会ってなに」「意味わかんない」と真っ向から中指を立てている。
しかし、「こういうのに参加するような人なら、面白い人とも会えるんじゃない」と俺が言うと「確かに!」と食いついてきた。
彼女は常に「面白い人」に興味を持つのである。その基準はよく分からないが、少なくとも「フツウに内定先が決まっている人」は興味の対象から外れるだろう。
「へー! わたしも行きたーい!」とウキウキの彼女に申し込みフォームのURLをLINEで送って、その日は解散した。

そして当日。
イベントはいくつかのセッションに分かれていて、最初の日に行われたのは参加者の軽い自己紹介と、イベントのコンセプトの紹介、あとは雑談といったとこだった。
二回目以降は、どうやら哲学的・感覚的な話題について議論するらしい。いかにもKさん好みである。
初日の帰り道、Kさんに「どうだった?」と聞くと「うーん……しゃけくんは?」と煮え切らない返事をされた。
「え? まあ面白そうじゃない? ほら、ネコが好きだからってだけで海外を転々として撮影してきたけど気づいたら就活シーズン過ぎてたとか、オンゲにハマりすぎて留年したあとヤケクソで起業して半年で倒産させた人とか……なんかすごい経歴の人がめっちゃいたじゃん」
「まあ、そうなんだけど……あ、わたし次のは行けないから。日程的に」
「? オッケー……」
そうして彼女は3回目のセッションには顔を見せたが、それ以降は一切参加することはなかった。


「で、しゃけくんどうだった? この前、あの就活イベントの人たちと飲んだんでしょ」
「うーん……まあまあだったよ」
「ふーん、よかったじゃん」
「……『まあまあ』だけどね」
「やっぱりぃ?」
彼女は少し嬉しそうに笑った。

またどこかの喫茶店で、俺と彼女は駄弁っている。
Kさんが「わたし、パース」と言った理由が分かったのだ。
何回かセッションを繰り返して分かったが、あの参加者たちの話は、つまらない。
こんなに面白い経歴を持つ人間の意見や話がつまらない訳がないと思っていたのだが、どこかで見たような視点からしか話題が膨らまなかった。
行動力と「面白さ」が結びつくものではないことを、俺は初めて知った。

明後日の角度から質問をぶん投げてくるKさんはやはり参加者たちの記憶に強烈に残ったらしく、そんな彼女を連れてきた俺は飲み会での注目の的だった。
「付き合わないんすか?」
下卑た話だ。
だが、まあ、誰もがそう言うだろうし、別の立場なら間違いなく自分も口にした言葉である。
その質問を俺は「あー、そっすかねー」と受け流す。
「そうですよ、めっちゃ仲良さそうでしたし、いけますって!」
「ハハハ、いやーでも彼女はそういうんじゃないんで……」
そう、彼女はそういうんじゃないのだ。
その頃にはもう俺も脳を二次元に焼き切られてはいなかったが、それでも彼女と恋愛関係になろうと夢想することはなかった。
友人であることすら面倒なのに、恋人になんてなれば気が狂ってしまう。
だが仕方ない。俺は、Kさんと友達なのだ。
彼女がアセクシュアルだからとか、そういうのは全く関係ない。
俺は俺の意志で、彼女と友人関係を結んでいる。それだけだ。


それから半年後、俺は3日で数万字を書き上げたかなり無茶な卒業論文を無事提出し、なんとか大学を出た。
結局就職は決まらずじまいで、浪人して新卒の肩書を守るべきだったのではとも考えながら証書を受け取ってしまった。
式にKさんの姿はない。
2月半ばに卒論審査の愚痴を聞かされてから、彼女に会っていなかった。
その後も彼女からの電話や食事の誘いは別の用事とのバッティングが続き、次に会話するのは5月になってしまった。

「ねえしゃけくん! いま東京いるってホント!?」
「んー、そうだねー」
Kさんは俺のLINEひとこと(確か「TOKIOニート」とかそんな感じ)を見たのか、テンション高めに通話をしてきた。
借りてるアパートの壁が薄いからあんまり大きい声は出せないけど、と前置きをして久しぶりに彼女と話す。

「なんでなんで?」
「いやー、ちょっと『これならやってみたい』って職業があってさ……それが東京ぐらいしか働き口がなかったから、ね」
「えっ、なんで? どうしてその仕事になりたいの?」
「なんでって……」
俺は自分でも繰り返し考えたその疑問に、少し答え方を思い出す。

「人の気持ちを、考える仕事だから」

確か、そう言ったと思う。
この大それた理由とその仕事がどう繋がるか、彼女にとつとつと説明した。
Kさんは相槌を打つごとに、少しずつ声を弾ませていった。
……ように、俺には聞こえた。

「すごいよ、しゃけくん」
しみじみとした口調で、彼女は言った。
ぴったりの仕事じゃん、本当に天職だね、すごい、すごいよ……。
彼女があまりに感動するものだから、なんだかこっちが泣けてしまった。

少し涙声になりそうなのを隠すため、俺は彼女に話題を振った。
「いまKさんは? 実家は関東の方だったって聞いた気がするけど」
「うん、いまは実家に戻ってるけどもう少ししたら色々地方行くつもり」
「へー、いいじゃん」
それから俺の一人暮らしエピソードを適当に話す。
「ゴキブリ対策のためにペパーミントの香水を買ってきて玄関に振り撒いたら苦手な臭いでせきこんじゃって、まるで俺がゴキブリになった気分だ」と語ると、Kさんはメチャクチャ笑っていた。
あとは死刑廃止論と他人をどこまで信用するべきかみたいな議論、せっかくだし関東近辺にいるうちに食事でもしようという約束をして、その日は通話を切った。

確か、それが最後の会話。

KさんのLINEアカウントが消えたのは、その数ヶ月後のことだ。




──────




休日はいつも昼過ぎから始まる。
今日はひと月ぶりに何も仕事がないから、喉の渇きをストロング酒で潤す。
言うまでもなく、更なる渇きに襲われるのだが。
そうしてまた布団に潜る。しばらく目をつぶっても眠気が来なければ、手を伸ばしてスマホを掴み虚無の情報に脳を浸す。
酒を飲む。寝ようとする。スマホを見る。この繰り返し。

やりたいゲームも読みたい本も書きたい文章もあるはずなのに、「しょうがないじゃないか」と誰かに言い訳をする。
今週は忙しかったんだ。来週も忙しいだろうけれど。
気づけば日はとっくに暮れていて、そろそろ動かなければと布団から起き上がろうとする……
が、途中で力尽きた。
再び寝転がってスマホの無料漫画アプリの更新を確認し、Twitterはてブ虹裏を巡回して、他にやること(あるいは、何かをやらないため引き延ばす理由)はないかとホーム画面をスクロールする。
なんとなく、LINEを開いた。
そして何年も前までトーク履歴をさかのぼり、あるアカウントで指を止めた。
「メンバーはいません」というメッセージが末尾にある、Kさんとのトーク画面を眺める。


彼女にどんな心境の変化があったのかは知らない。
俺に何の説明もなく、なんて言えるような関係ではなかった。
そもそも「あまり自分の事情を話しすぎなくていい。信頼してないことと語りたくないことを語らないことは別だから」と伝えたのは俺の方だ。
何人かいる共通の友人に話してみたが、もちろん誰も行方を知らなかった。
Kさんのことは気にはなるが、わざわざ連絡手段を探すのも変な話だ。
「自分がかわいいうちに死にたい」というのが口癖だったから、万が一のこともありうる。
しかしその頃の俺ははじめての一人暮らしを満喫するのに忙しく、彼女への心配もすぐに消えてしまった。

Kさんとの最後のやり取りを思い出す。
……今となっては自分の発言の間抜けさに呆れ果てる。
何が「人の気持ちを考える」だ。
どうして連中の心中を推し量ってやらねばならんのだ。
あの頃の俺が最も嫌っていた人種だというのに。
俺がここで働くことで幸せになれる人間なんて誰一人いないのに。
ああ、正気ではいられない。
初仕事のあと、契約先の社長は「この仕事、ふっと連絡が取れなくなる人が多いんだ」と笑っていた。
なるほど、幾度も些細な不快から逃げ出してきた俺にはまさしく天職だろう。
現場が悪いのか職種が向いてないのかは分からないが、そこはあまり問題ではない。
俺という人間の在り方の話をしている。


あと一歩だ。
あと一歩で、俺は自分の人生に見切りをつけられる。


何も首を吊る訳ではない。
むしろこれは、「諦めて生きる」という話だ。
計画性もなく、目標もなく、ただ生命活動を止めないための最低限の活動をするだけと割り切ってしまう。
今日を生きても明日死ぬかもしれない。
それでもまあいいやと、成長や進歩なんて考えず、命が終わるまでじっと待つ。
俺はこんなもんだから、と。
別に何かに励みもしないのに。


彼女に会いたい。話がしたい。
仕事が面倒だとか、契約先の愚痴だとか、アフターコロナの社会情勢だとか、昨今の政治批判だとか、そんな話をしたい。
知ってるかい、Kさん? 年金が高い高いっていうけれど、国民健康保険や住民税の方がよっぽどふざけた額なんだぜ。フリーランス労働基準法は適応されないから、サブロク協定も有給休暇も存在しないんだ。それでも契約を切られたくないから、黙って働くしかないんだよ。
きっとそれを聞く彼女の相槌の数はだんだんと少なくなっていって、最後にポツリとこう漏らすだろう。

「しゃけくん、つまんなくなっちゃったね」

――ああ!
俺はその言葉さえ聞ければ、色んなことを諦められるのに。
俺の中身は元から空っぽだったが、今ほどじゃあない。
「そうか、俺はもうダメなんだな」とため息をついて、明日メシが食えるかの心配だけして生きていけるようになるんだ。
「つまらない」とは、なんと美しい救済の言葉だろう。
実のところ俺の「つまる」と彼女の「つまる」は全然噛み合わなかったのだけれど、少なくともKさんが面白がってた俺は存在しないのだと冷たく突きつけてほしい。
今の俺だけ知ってる奴でも、昔から俺をつまらないと思ってる奴でも、今も昔も付き合いがある奴でもなく、他ならぬ彼女に。
昔、「しゃけくんは面白いよ」と言ってくれた、彼女に――――



……いいや、絶対にダメだ。
彼女を俺の自傷趣味に付き合わせるべきではない。
俺がこうしてKさんのことを考えているのは、彼女を通して自分を見ようとしてるだけにすぎない。


あれは確か、本格的な就職シーズンが終わりかけていたぐらいのことだ。
Kさんが夜中に突然LINE通話をしてきた(彼女の通話が突然なのはいつものことだが)。
曰く、彼女は「知らない世界を覗くため」とフツウの感覚では少々危ないことをしていたそうだ。
それを知った友人と大喧嘩し、さっき絶縁したという話をしてきた。

「友達の選択を尊重できないって、幼稚だと思わない!? 全部自分の考え通りじゃなきゃ受け入れないなんて、リスペクトがないよ!」
「……正直、俺も今回の件は聞いてたら止めるよ」
「どうして?」
彼女の語調が強まる。
どうしたものかなと俺は考えるが、こういうとき俺は決まって立場を置き換えた極論で煙に巻くのだ。

「んー、じゃあさ」
「うん」
「俺、いま実家のマンションの6階の自室から電話してるんだけどさ」
「うん?」
「人生だりいし今から飛び降りるわ、って言ったらKさんどうする?」

いいんじゃない、などと言われたら本当に実行してしまっていたかもしれない。
そのぐらいあの時の俺は自暴自棄だった。
こんな最悪の冗談をかます程度には。

「……しゃけくんがそう言うなら、きっとずっと考えた上での結論なんだろうね」
「…………」
「――でも、止めるかな。ちょっとだけ待ってほしい。少し話させてほしい。わたしが寂しいし、納得できないから。それはわたしのためで、『しゃけくんのためを思って』なーんてことは絶対言わないよ」
「そっか」
「……そうだね。だから『あなたのためを思ってのことだから、こうして』って奴はズルいんだ。相手を変えることは愛じゃない――なるほど! ありがとうしゃけくん、おかげで考えがまとまった!!」

違う、そうじゃない――その言葉が喉元まで出かかったところで、満足げな彼女の声を聴いて急に面倒になった。
「そりゃどういたしまして」
「いやーやっぱしゃけくんはすごいねー! そーいやさ、この前四国のゲストハウス泊ったんだけど――」
呑気にKさんは会話を続ける。
俺が言いたかったのは、「車がビュンビュン通るなか赤信号の横断歩道を突っ走ろうとしている幼児を見たらどうするか」とかそういう次元の話だったのだが。
クソガキの服をひっつかんで止めるのに「あなたのためか自分のためか」なんて問答は不要だろう。


ふっと意識が現実に戻った。
iPhoneのスリープボタンを押してポケットにねじ込み、体を起こして立ち上がる。
枕元に転がる500mlの空き缶を放り投げ、床に置いてある炊飯器につまずきながら、俺は空腹を満たす何かを探しに仕方なく外へ出る。

時計は21時を回っていた。
今が土曜日なのか日曜日なのか思い出そうとしたが腐った脳みそでは答えは浮かばず、スマホのホーム画面の日付表示を頼った。
うっすらと抱いていた希望は打ち砕かれ、俺は明日の業務についてぼんやりと考えを巡らせながらコンビニに向かった。
また、月曜日がはじまる。
また、誰にも必要とされない仕事がはじまる。

……待て。
俺は、誰かに必要とされたかったのか?
俺は――俺はただ、自分が救われたいだけだ。



「わたしはね、世界中の人を愛してるんだ!」
もちろんしゃけくんもね、と彼女は笑いながら付け足した。
あの時のKさんの目は、とてもキラキラしていた。
あんまりキラキラしているものだから、彼女の瞳はきっと何も映していないんだろうと思った。
俺の目は沼の底みたいに濁っているけれど、その点は彼女と共通している。

俺も彼女も、他人にあんまり興味がない。

だから人の忠告を平気で無視したり、他人の好意をまるで受け取らなかったりできる。
どこまでも独善的だ。
でも、きっとそれでいい。
だから俺たちは友達になれたんだ。



少しだけ、俺が明日から何をするべきか明確になった気がする。
誰かの役に立ちたくて仕事をするなんて考えは傲慢だ。
俺ははじめから、自分のために仕事をするべきだった。

努力を引き延ばす理屈はいくらでもあったが、幸いなことに努力を諦める言い訳は見つからなくなった。
まだ「諦める」なんて言葉を使うことが許されるほどの努力をしていない。
そうか、俺の方はなんとかなりそうだ。じゃあ君は?
冬の寒さに身を縮こまらせながら、何かの偶然でばったりKさんに出くわす妄想に耽ろうとする。


しかし俺は今さらになって、自分が彼女の顔をうまく思い出せなくなっていることに気づいた。