ムチツジョチツジョ

思考は無秩序 言葉は秩序 趣味と股間は無節操

無印における「アイドル・菊地真」とはなんだったのか

 初めに断っておかねばならないのだが、本稿ではアケマス・箱マス(いわゆる無印)のみを題材として取り扱う。続編タイトルとの比較検討や他メディア展開の参照を行うことはアイマス論考において非常に有益な試みだが、パラレルワールドの解釈や作家の非同一性といった問題も発生する。たとえ「アイマス」の本質から離れたとしても、水掛け論にもなりかねないそのような議論は避けて通りたい。つまり、この文章で語るのは「アイマス菊地真」ではなく「『THE IDOLM@STER』の菊地真」でしかないことを宣言する。そのため、現在進行形で発表されている公式コンテンツでの描写と矛盾するような結論になったとしても、ご理解いただきたい。

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 あなたは「菊地真」というキャラクターにどのような認識を持っているだろう。明るく爽やか、ボクっ子、スポーツが得意、正直で単純、エトセトラエトセトラ……答えは人により多様だが、中でも最も多くの人が第一にイメージするのは「ボーイッシュ」「男っぽい」という要素だろう。また、その表現を受けて「けれども内面は乙女で、かわいさに憧れを持っている」と言葉を続けるのではないか。

 では、そんな彼女がアイマスという物語世界の登場人物として、「アイドル」になったのはなぜだろう。

 単純に「彼女自身の理由」を答えるなら、それは「女の子らしく、かわいくなるため」だろう。例えば無印コミュでの最初のミーティングでも、彼女がそういった理想像や目標を語る場面が見受けられる。

「よーし、これからがんばって、たくさんの男の子に騒がれる存在に、なるぞー!」

「言ってることは、わかりますけど、できれば、かわいさで勝負したいな」

 

 もしくは、真のプロデュース経験がある人なら、「公園でダンスの練習をしている女性たちに感銘を受けたからだ」と答えるかもしれない。

「女の子としてのかわいさと、あの真剣さ。その両方が、どうしても欲しくて……」

「それでボク、アイドルになるしかないって、思ったんです!」

  

 

 しかし、私がここで考えたいのは、上記のような「なぜ彼女はアイドルを目指したか」という真自身の動機ではない。「なぜ彼女がアイドルという選択肢に選ばれたのか」という問いである。言い換えるならば、『THE IDOLM@STER』というアイドル育成ゲームの登場人物として彼女がふさわしい理由を知りたいのだ。

 「オトコっぽい少女が女の子らしくなるため」なら、別にアイドルを目指す必要はない。親元を離れてオシャレを覚えて、髪を伸ばして、新しい友達を作ればよいではないか。

 「なにかに打ち込む姿、夢を追う姿に憧れてたから」というのであれば、それこそスポーツにダンスにと多岐にわたる彼女の得意分野が活かせるだろう。なにか他のきっかけがあれば、彼女はアイドルではない、別の道を走り出していたはずだ。

 その両方を得る手段は、本当にアイドルしかなかったのだろうか。

 芸能界の因習、浸食されるプライベート、無作法なファン……そんな多くの犠牲を払ってまでも「アイドル」でなければならなかった理由を見つけたい。

 物語は偶然により流されていくものではなく、必然性をもって進んでいかものであらねばならない。メタ的で現実的に「裏事情」を考えるならば、アイマスが多くの個性あふれるキャラを登場させるにあたり、ギャルゲーお馴染みの「ボーイッシュ枠」を要請しただけなのだろう。それでも私は、アイマスという<商品>が菊地真という<記号>を必要としたのではなく、菊地真という<人間>がアイマスという<物語>を必要としたのだと証明したいのだ。

 私はアイマスにこのような願望を持っていたが、それはドームエンドを体験したときに一度完全に崩壊してしまった。……恐縮だが、本論に入る前にもう少しこの自分語りと独りよがりな理想論にお付き合いいただきたい。

 

 

○ドームエンドの裏切り

 真シナリオを語るうえで、ドームエンドは欠かすことの出来ない存在である。アイドルランクSに到達し、お別れコンサートも成功したものに与えられる、公式から設定された「最高のエンディング」だ。

 そこでの彼女は今後も(女の子たちの王子様としての)アイドル活動を続ける代わりに、プロデューサーには今後ずっと自分だけをプロデュースするようにお願いする。最後に真は「やっと見つけた……ボクの、ボクだけの王子様!」とプロデューサーに抱き付き、真シナリオはめでたくハッピーエンドとなるのだ。多くの真Pからの評価も高く、彼女とPの一年間を締めくくるのに理想的な結末と呼べるのだろう。

 だが、私は全く納得がいかなかった。

 

 彼女は本来、「女の子らしさ」や「かわいさ」といったものを求めてアイドルとしての道を選択したはずだ。それにも関わらずプロデューサーが提案した真のアイドル方針は「女性人気も得られる王子様路線」であり、直接的な(真の目指すような)かわいさとは程遠い。

 私はそこにこそ意味があると信じ込んで彼女のプロデュースを続けた。ひそかに掲げていた真のプロデュース方針は「ジェンダーバイアスからの解放」であった。すなわち「男性らしさ・女性らしさといった社会的規定概念に縛られず、自分の意思の赴くままに自己表現をする」、真はそんなアイドルになるのだと確信していた。ご存知の通り彼女の「かわいい」は世間ズレしていて、「女の子らしくなりたい」という欲求はどこか焦燥感とともに表われているようで、彼女の目標はどこか歪みを伴っている。私は真がアイドル活動を通してその歪みから解放された、誰の価値観にも頼らない、まっすぐな「彼女らしさ」を確立するのだと信じていた。

 事実、彼女は高ランクになるにつれて「王子様」という扱いに不快感を示すことが少なくなり、むしろ必要とされることに喜びや責任を感じるようになった。確固たる自分を、想いや考えをアイドル活動に乗せようとする努力が垣間見え、私の信念がより強固なものになったのだ。

 

 しかし、最後の「ハッピーエンド」で真が明かしたのは、プロデューサーへの依存心だった。

 

 私は自分の理想像を勝手に彼女に押し付けていたのだろうか。ならば、彼女は「自分をお姫様扱いしてくれる誰か」さえいれば、望まぬアイドル活動なんて経験しなくとも幸せになれることになるではないか。Dランク・Cランクの彼女が見せた仕事への熱意や与えられた役割への使命感も、「大切なプロデューサーとのアイドル活動の成功のため」でしかなかったのか。真シナリオは本当に「王子様(=プロデューサー)を見つける」ための物語でしかなかったのか。アイドル活動はそのための辛い道のりでしかない、無益なものだったのか。

 このラストが、本当に彼女のアイドル活動の終着点なのか。

 

 だが、私は彼女の選んだ結末を否定する前に、私自分の価値判断を懐疑的に見なければならない。これまで前提として捉えていたが、真シナリオの主題は本当に「男/女の価値基準からの脱却」なのだろうか。そもそも、これまで彼女を縛りつけていたのは本当に<女の子らしさ>なのか。次節からは具体的なコミュを検討することでこの問題について論考する。

 

 

○D・雑誌取材から見る彼女の動揺

 まず彼女の考え方・思想の根底を再度検討する足掛かりとして、Dランク・雑誌取材を取り上げたい。以下に簡単なあらすじを記載しよう。

  雑誌に載せるための取材を受ける真。インタビュー自体は問題なく終わったが、どうやら彼女はライターが仕事を終えると雑談もなしに切り上げてしまったことに不服らしい。

 アイドルという肩書とは別の、ひとりの人として自分を見てほしいと彼女は語り、幼い頃のいじめられた経験、心配した友達が毎朝迎えに来てくれた過去を明かす。「あの頃は、形だけの付き合いなんて、なかったのに」――大人になるにつれ、社会に染まるにつれ、建前ばかりが増えていく周りの人間に真はさびしさを抱いているのだった。 

 疑心暗鬼に陥った挙句、ついには「プロデューサーも自分を仕事の駒と考えているのでは」と不安を口にする真に、彼がとった行動は……

(動画リンクも一応載せるが、全選択肢を取り上げられたものではないので注意)

 私はこのコミュを初めて見たとき、強い違和感に襲われた。なぜならば、最後のタッチコミュを除いて――いやそれさえも――どの選択肢を選んでも行きつく結論に本質的な差が存在しないためである。1番目・2番目の選択で正解を選ぼうと、真は「そうかもしれない、でも~」と反論し、プロデューサーの答えに全く納得しない。最後のタッチコミュも「プロデューサーは真を駒として見ていない」という証明に(真の中で)なったとしても、コミュ全体で語られた問題の本質である「本音と建前」や「個人と社会の違い」などには何ひとつ触れていないのだ。

 表面的に見れば、このコミュでのプロデューサーは回答を放棄している。しかし、ここで真が今までのようにプロデューサーに言いくるめられる展開にならないというのは、彼女の不安や恐怖がたった一つのコミュで解消されるほど単純ではないことを意味するのではないか。だからこそここでの真は暴走状態にあり、他者の意見を聞く余地を持っていない。つまり、このやりとりは彼女の根幹、簡単には(少なくともこの一場面だけでは)変えられないような、彼女の根本的な思想に強く関わっているものだと推測できる。過去に受けたイジメの告白などは、その象徴として非常に顕著なものだろう。「プロデューサーとは上っ面だけの関係なんかじゃない」という今までの信頼が揺らいでしまうほどに。

 では、ここで彼女が危機を受けた原因となる思想の根幹とはなんであろうか。次節では二項対立を用いてその説明を試みたい。

 

 

○ <public> <private> の二項対立 

 二項対立とは、ふたつの概念が対立し合っていることを指す。例えば<海>と<陸>は二項対立の関係にある。<海>でなければ<陸>ではないし、<陸>でなければ<海>ではないからだ。二項対立には<男>と<女>、<生>と<死>、<現実>と<夢>など様々なものがある。この二項対立の概念を用いて社会や物語といった複雑なものを解体し、その構造を論理的に明らかなものとする試みを構造主義と呼ぶ。この論では構造主義的観点をベースにアプローチを進める。

 

 さて、ここで論に用いる二項対立の説明に入ろう。その要素は<public>と<private>と呼ぶことにする。

 <public>――直訳すれば「公的な」「公開された」となるが、ここでは「対外的な自分の態度」「世間一般から求められる・認識される自分」のように考えてほしい。一方で<private>とは、「他者からの反応を考慮から外した、自分の純粋な欲求・感情」を表す。

 これだけでは感覚的で分かりにくいので、実際にコミュをこの二項対立で分析しながら見ていくことにする。ここで取り上げるのはFランク・買い出しだ。

 一見すると「学校では王子様扱いされてばかりいた」という真コミュシナリオ定番の展開に思えるが、ここでは「化粧へのトラウマ」という異質な描写がある。

 本来、化粧というのは女性性の象徴と呼んでも過言ではない。単純に真の行動理念において「女の子らしさ」を第一に置くならば、化粧には憧れこそ抱いていても忌避感を募らせるような描写をすることは物語上不適切だろう。よってここでは、化粧のもたらす女性的記号よりも文化祭のトラウマが勝ることを示すため、このエピソードが挿入されていると考えるべきだろう。

 BAD選択肢にあるように、真がロミオ役を押し付けられたことへの不満の理由は「遊ばれる」と感じたためだ。ひとからオモチャにされること、モノ扱いを受けることに強く憤る。最後の選択肢でもプロデューサーからのからかいには強く失望する。

 ここから、化粧のような「女の子らしさ」への損失以上に、自分の意志が他者によって侵害されることの方が彼女にとって不快であることが分かるだろう。すなわち、<private>が<public>に抑圧されていると説明できる。

 

 このように、これまで彼女を考える際にたびたび用いられてきた「女の子っぽさ」「男の子っぽさ」という要素もこの <public> <private> に還元できる。この二項対立で考えると、彼女の活発でスポーツ好きな面やサッパリとした気質を保障しながらも、大きな音や虫に怯え人形を愛でる繊細でかわいらしい一面も肯定することが可能である。これまで<男っぽい><女っぽい>の枠組みで捉えると矛盾していた真の内面を、一律に<private>でまとめあげたためだ。一見すると当たり前なことを指し示しただけにも考えられるかもしれない。だが、既存の言説に多くあった、「菊地真は<男っぽい>か<女っぽい>か」という不確かで一面的な基準は一度刷新する必要があるのだ。

 

 

○ 「普通」に振り回される<public>と<private>

 次に彼女の「普通」に対する執着について言及しよう。

 F・あいさつ回りにて、TV局の上層部にいびられたことを愚痴る真に「気に入ったからそういうことをされたんじゃない」と諫めようとすると、「歪んだ感情なんて、受け取っても嬉しくない」と突っぱねられる。彼女は「ボク」を一人称とする女の子が周りに誰もいないことを気にしていて、「一部には受けるよ」と励ますと「なんかこわいですね」と否定的な態度をとる。

 D・ゲスト出演では、女言葉を使う男性パーソナリティに「変態」と露骨に拒否反応を示して「あの人とは、ちがいます」と距離を置きたがる。同じくランクDのライブ(テーマパーク)では、ヒーローショーの「普通の女の子の役」に憧れると語った。彼女が「普通」から外れようとした数少ない選択は、ある日の風景3で述べられている。「普通はめざさない道でも、ボクにとっては、正しい道なのかもしれない」―すなわち、アイドルを目指すことだ。

 真が「普通」を語るときの語調には、常にどこか恐怖がにじんでいる。この「普通」とは、まぎれもなく<public>と接する世間の目を意味しているだろう。世間や社会の通例的価値基準で値踏みされる彼女の<public>が自身の<private>から外れるような状態は、彼女にとって最優先で回避しなければならないものだ。それは過去に「男女」と茶化された経験があった(Bランクアップ時の事務所内会話より)からかもしれないし、親友を他者の視線により失った(ある日の風景6より)からかもしれない。真にとって自分の<public>とは<private>を脅かす恐怖の対象であり、可能な限り<public>を<private>と同調させることで身を守るしかなかったのである。彼女の「女の子は女の子らしくあらねばいけない」という強迫観念は、ここに影響している面もあるのではないだろうか。

 

 ではこの推察を踏まえて、もう一度Dランク・雑誌取材を検討する。

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 人は誰しも<public>と<private>の面を持つ。他者との交流で見せる(認識される)自己とは<public>でしかない。その<public>と<private>にほとんど違いがない人もいれば、ガラリと変わっている人もいる。だがどちらにせよ、人がコミュニケーションを取るときに他者と接する自己は<public>だけである。

 

 ライターとのインタビューにて求められた真の立ち振る舞いも、無論<public>のものだ。しかし彼女自身は「雑談もなしに」「ボクに興味ないのかな」など、記事にならないことまで聞かれることを望んでいた。「人どうし」である以上、<private>を互いに明かし合いたいと願っているのだ。

 当然だが、彼女も社会や大人がそれを許さないことを理解しているし、全ての人と本音だけで付き合っていけると信じてもいない。それでも彼女は「簡単に割り切りたくない」と訴える。ここでの「割り切り」とは、<public>と<private>を別個のものとして切り離すことを意味している。そんな彼女の理想は、<public>も<private>も渾然一体となった形だと考えられるだろう。

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 彼女の「さびしい」という表現は、誰も本当の自分(=<private>)を知らないし興味を持たれていないのではという疑念に由来している。<private>とは矛盾していても、社会から求められる以上<public>を貫き通さなければならない。そうして<public>が拡大していけば、<private>が呑み込まれるように縮小していき、やがて消失しまうような恐怖に襲われるはずである。言い換えるなら、誰にも本当の「菊地真」を理解してもらえないままひとりぼっちになるのだ。だからこそ彼女は<public>と<private>をすり合わせようと画策してきたのだろう。

 

 

○王子様の呪い

 彼女が抱えるこのような<public>と<private>の問題は、プロデューサーである我々が直接目の当たりにするのはアイドル活動の範疇である。しかし、彼女が最も長い時間触れてきた「社会」や「世間」というのは芸能界ではない。それは間違いなく学校のコミュニティだろう。彼女自身もたびたび語るように、クラスメイトらからの「王子様」としての扱いは真の思想に根深く影響を与えている。

 彼女は肥大した<public>のため、<private>までもが脅かされている。王子様の役割が<private>へ侵食している状態は、F・ライブ(デパート屋上)やE・握手会/サイン会などのコミュにおいて、無意識下のレベルで女性を喜ばせる発言をしてしまうことから見て取れるだろう。

 周囲の力により本当の自分の姿や立ち振る舞いまで歪められていく。この現象は、王子様が魔女にカエルの呪いをかけられ変身させられる童話や恐ろしい野獣の姿にされてしまうディズニー映画にならえば、少女が王子様に変身させられる「王子様の呪い」とでも表現できようか。クラスメイトにかけられた「王子様の呪い」は、彼女の<public>への不信を強固なものにするには十分だろう。

 さて、彼女は<public>と <private>の隔たりに振り回されていることが分かった。彼女の自己確立のためには、この状態を安定させる必要がある。ではどうすればよいのか。もしもこれが『カエルの王様』や『美女と野獣』のようなファンタジーであれば、愛する人の口づけで呪いは解けるだろう。かの童話でのお姫様は、醜い獣の<public>には目もくれず王子様の<private>にこそ美を見出し、ハッピーエンドを迎えた。つまり、その呪われた相手を愛する役割を持つのがプロデューサーであり、ドームエンドとは呪いを解く愛の口づけであった……

 果たして、本当にそうなのだろうか。

 

 以下のコミュを見てみよう。Eランク・ミーティングだ。

 このコミュでは真が「ファンがボクの中身、ちゃんと見てくれない」と愚痴をこぼし、「どうして人って、すぐ見た目だけで、判断するんでしょう? まちがってないですか!?」とプロデューサーに詰め寄る。

 ここでの発生する会話の選択肢のひとつに「俺は、中身も見ているよ」というものがある。これはプロデューサーが<public>を度外視して<private>の肯定・承認を行う表明に他ならない。もし「王子様の呪い」がプロデューサーの手によって解けるならば、彼女の<private>を受け入れてやるこの選択肢こそが正解になるはずだ。しかし、実際はそうならない。

 「でも、ファンは、同じ見方は、してくれませんよね?」

 彼女はプロデューサー個人に特別な価値をまだ見出してないだけだとも思われるかもしれない。だが、このコミュは「俺ひとりがわかってても、救いにはならない」という一節で締めくくられる。もっと信頼関係が築ければ違っていただろう、といった濁し方ではない。プロデューサーひとりには彼女の<public>を動かす力がないし、この問題において彼は無価値も同然という結論にこのコミュは至るのだ。

 このコミュの正解は、「そういう真は、どうなんだ?」の問いかけである。この質問で彼女は自身も他人を判断するときは見た目(=<public>)に囚われる事実を省みて、「文句言ってないで、努力しないと!」と前向きに状況に取り組む姿勢を見せる。この選択肢でのプロデューサーの総括は「人のせいにしてちゃ、なにも変わらない。理想は、自分の手で引き寄せていかないとな」である。これは、自身の<public>を蔑ろにして得られるものなど存在しないという主張だとも受け取れるだろう。

 プロデューサーが本当の彼女(=<private>)を知っているだけでは意味がない。プロデューサーも真自身も、Eランクの時点で分かりきっていたのだった。では、彼女の自己確立のためには何が必要なのか? おそらくその正体こそがアイドルの仕事だったのだろう。「普通」から外れることで得られる<public>の肯定、つまりアイドルの成功を意味している。だがはじめの方でも記述した通り、それがなぜ「アイドル」なのかについての説明が必要だ。次節からはその論考に進む。

 

 

○「偶像」を意味するアイドルとは

 さて、ここで「アイドル」という表現について考えてみたい。“Idol”という語を一般的に用いる場合、原語では単に「若者たちからの人気者」という意味で使われ、アーティストとしてのイメージが強い。だが言うまでもなくこの語の日本語における直訳は「偶像」である。この「偶像」とは何を意味するのだろうか。

 偶像とは、本来モノとして表せない(表してはならない)神をかたどってつくる像のことである。神は崇める対象ではあるはずだが、目の前に存在せず想像するしかないため信仰を向けにくい。それよりも、現実に見える形で存在し、確かな実感の持てる「偶像」に祈りをささげる方が分かりやすいということだ。

 ここで大事なのは、偶像とはあくまで神をかたどった「モノ」でしかなく、神そのものではないということだ。ユダヤ教イスラム教が偶像崇拝を厳格に禁じているのは、「不完全な人の手で神をかたどったものを作るのは神への侮辱であり、神ならざるものに信仰を捧げる不心得に他ならない」という思想に基づくものである。では、そんな語と同じであるアイドル(=偶像)が意味するものは何であろうか。

 アイドルのファン達がアイドルを応援するとき、アイドルを「自分の理想の少女」として見ている。それは理想の友人であり、恋人であり、妹であり、娘であるかもしれない。それはファン達やアイドルの間で作り出した共同幻想であり、だからこそ「恋愛禁止」を義務づける事務所が多いといえよう。

 だが、その「理想の少女」像は現実のアイドルとは別個の存在だ。あくまで演技やキャラクターでしかない。現実世界における80年代以降のアイドルファンはその暗黙の了解を踏まえた上でアイドルを応援してきたとされる。アイドルはイメージ(夢)を売る仕事であることを、彼らは知っている。

 そう。この構図は、先ほどの「偶像」と全く同じであるのだ。

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 信仰者は偶像を崇めることで神に祈る。

 ファンはアイドルを応援することで理想の少女を想う。

 似せて形づくられていたとしても、偶像は神ではない。

 演じこそすれども、アイドルはファンの信じる理想の少女とは異なる存在だ。

 

 そして、アイドルという仕事は、これまで論じてきた<public>の存在に最も自覚的であるのだ。彼女らの演じる「理想の少女」こそ、<public>の概念そのものであるといえよう。

 真は、そんな「アイドル」という道を選んだ。アイドルに憧れ、Cランクでは「他者からどう見られるか」に振り回されることが随分と少なくなった。これはドームエンドでは「本当のボクを認めてくれたプロデューサーのおかげ」と真からは説明されているが、それだけではない。アイドル活動そのものが、自身の<public>の肯定であったためだ。

 彼女は<public>、言い換えれば「王子様の呪い」には劣等感しか抱いていなかった。しかしアイドル活動によりその「王子様」の役割に真摯に向き合った。彼女が初めに望んでいたのは<public>を<private>にすり合わせること、もしくはそれらの一体化であった。だがそれは<private>を誤魔化し続けるのと同様に、いつか限界が来てしまう。自身の<public>がたくさんの人を笑顔にして、夢や希望を与えることが素晴らしいものだと知る。

 王子様の呪いは、プロデューサーが解いたのではない。真が自分自身の力によって、呪いをコントロールしたのだ。<public>の肯定こそが彼女の自己実現であり、アイドル活動の真の意味であったのである。

 

 

○ 「ボクだけの王子様」のありか

  最後に、本論のテーマであったドームエンドの再考、すなわち成熟した彼女の選んだ「ボクだけの王子様」という結末の真意を見定め、この考察を終える。

 まずはラストライブ前の会話を見ていこう。

 彼女が最後のコンサートの直前でプロデューサーに問いかけたのは、これまでのアイドル活動の意味であった。ここでの正解(真・プロデューサー共に納得のいく答え)は「行動で、なにかを変えること」である。前記したとおり、真がアイドルを目指す道を選んだことは「普通」ではない。「自分のあり方や、まわりの見方を変え」るために「普通」の打破を試みる必要があった。それこそが、アイドルの門を叩くことだったのだろう。

 なお、考察対象としてきた作品『THE IDOLM@STER』では、お別れコンサート直前でのプロデューサーとアイドルのやり取りは、FランクからSランクまで共通のものになっている。つまり、アイドル活動の成功・失敗に関わらず同じ展開が結部の導入として描写されるということだ。これは、少女達がアイドルを目指した原点、すなわち「アイドル活動の核」が語られ再定義される場面であるためと考えられる。

 活動が失敗に終わったFランクにおいても、トップアイドルの座を手に入れたSランクにおいても、アイドル活動の目的は「変革」にあった。 

 

 繰り返すが、その変革の訪れが最も大きく表れていたのはCランクであった。他者からの見られ方への対処やプロ意識の向上、今までとはアイドルとしての自覚が格段に出来ている。この時点で彼女の<public>への扱いは成熟しきったと言えるだろう。

 

 そんな彼女がドーム成功エンドでは「アイドルを続ける代わりに、これからもずっとボクだけのプロデューサーでいてください」と発言する。

 もちろんこの発言にはビジネスライクな関係だけではなく、恋愛関係としての意味も含まれている。これまで通りに考えれば、アイドル活動よりもプロデューサーを優先したというのは彼への依存であり、アイドル活動で養ってきた<public>の全否定であるのだ。

 しかし、ここで忘れてはならないことがひとつある。それは、「ボクだけのプロデューサーに」という言葉は、仕事や社会といったものはと全く無関係の、プロデューサーという個人の人間へのお願いであることだ。

 

 ドームエンドはBランクとASランクでシナリオが異なっている。Bランクでは、別れる前に真は「お願い」を言いかけるもなかったことにして去っていくのだ。その「お願い」とは、言うまでもなくASにおける「ボクだけのプロデューサー」であろう。つまり、彼女がプロデューサーに思慕の念を抱いていることはBランクでも同じなのにも関わらず、最後に思いを伝えることはしないのだ。それはなぜか。彼女がBランクとASランクで異なるのは一点のみ、「トップアイドルか否か」だけである。

 アイドルというのは<public>そのものであることは前節で説明した。トップアイドルとはすなわち<public>の最良の形である。<public>が完成し確立されたことは、同時に<private>が何にも侵されない保証がなされたことも意味する。揺るぎない地位を得た<private>は、プロデューサーへの告白という形で発露したのだ。

 アイドル活動初期の真は自分の意思が世間に無視されていることに憤り、不満を漏らしていた。だが男女関係というのは個人と個人の契約でしかない。<private>の取り扱いにまつわるこれまでの衝突とは本質から異なっているのだ。ここでの真とプロデューサーの会話は、D雑誌取材で彼女が求めていた<private>同士のやりとりなのだ。

 

 たとえプロデューサーに断られたとしても、真は決してアイドルを辞めたりしなかったであろう。Bランク成功エンドでも、ドーム失敗エンドでも、彼女は「アイドルを続ける」という選択を取り続けたからだ。

 失敗エンドでの「 明日からボクひとりなんですよね……。だったら!」の台詞に危うさを感じるのは事実だ。それでも最後は胸の中の情熱を信じ、再出発の宣言を果たす。

 プロデューサーへの恋愛感情は、アイドル活動とは無関係の<private>であり、成功エンドの「お願い」も個人的なワガママにすぎないのだ。

 

 依存とは、<public>も<private>も他者に完全に委ねてしまっている状態を指す。彼女は<public>を切り離せていない訳ではない。むしろ、成長により切り離すことが出来たからこそ<private>を主張することができたのではないか。

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 最後の「ボクだけの王子様」という言葉には男性性が強調されており、その相手である真の女性性が際立つ。これは本稿の「菊地真シナリオはジェンダーと無関係」という主張から外れているように思える。しかし、論述してきた通り恋愛関係は<private>なものであり、「プロデューサーと真」という関係が「男と女」に変換できる。よって、真シナリオの主題はやはり自己と他者の関係のあり方なのだと考えられるだろう。

 

 菊地真は、他者や環境から自分の意思を奪われていた。その変革を図るためにアイドルの道を選び、悪だと見なしてきた自身の<public>と向き合う。その結果トップアイドルという究極の<public>を作り上げた彼女は、ここで初めて何にも影響されないまっさらな<private>を見つけ出したのであった。