手首を切るように酒を飲み、窓から飛び降りるように鍋を煮込め
おい。
おい、貴様。
貴様だ。そうだ、そこの貴様。
貴様、貴様はクソみてえな労働は終わったか?
俺はまだだ。「殺す」「絶対に殺す」とつぶやきながら、今も働いている。
おっと、誤解しないでくれ。
別に同僚だの取引先だのの殺害計画を立てているわけではない。
関係は比較的良好だ。少なくとも、俺の認識では。
俺が「殺す」と言っているのは、予告でも願望でもない。喩えるならそうだな、心のあり方なんだ。
俺は別に他者に危害を加えたい訳じゃない。気分悪いしな。俺はな、労働していると不意に「死にたい」と漏らしてしまいそうになるんだ。そんなときは、その言葉を飲み込みグッとこらえて、力強く宣言する。死んでたまるか、むしろ逆だぞ、「殺すぞ」──ってな。
みんなそうやって乗り切っているだろう、労働というものには。
……まさか、違うのか? いいや、そんなはずがない。
この世の人間、すべてがそうしているはずだ。俺は狂っていない。俺は正常だ。
はっきり言って、俺にとって、この仕事は天職だ。
必要以上に他者と関わらずに済み、周りよりちょっと劣る程度には能力を発揮できる。
だが普通の人間にとってこの仕事は拷問のようなもので、大抵は狂人がやるものらしい。実際そうなのだろう。
その証拠に、俺の隣の席の女なんて「殺す」「殺してやる」とうめいて涎を垂らしながらキーボードを叩いている。頭がおかしいに違いないぜ、仕事中にそんなことを口にするなんて。
……この話はどこまでが本当かって?
さあな。
少なくとも、俺の仕事がまだ終わってないってことだけは確かだ。
そうやって精神を誤魔化しながら月火水木金土と働いているが、これを何ヶ月も続けてきたらそろそろ限界だ。在宅も含めりゃ、週7みてえなもんか。
ああ、もうダメかも知れねえ。現に最近、口にする言葉は「殺す」より「死にてえ」の方が増えてきた。
でもな、そろそろ久々に休みが取れるんだ。
職場に行かなくていい。家に帰っても片付けなきゃならないブツがねえ。
そんな日が、3日間も。これは奇跡だ。
こんな素晴らしい日に、俺は、俺は。このズタボロな俺は。
何をするべきか。しなければならないか。
そんなの決まっている──
ビーフシチューだ。
ビーフシチューに決まってる。
ビーフシチューを作るしかない。
貴様もそう、思うだろう。
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なあ貴様。
貴様は、自炊をするのか?
俺はしない。なぜって、自炊は贅沢だからな。
金と時間と心の余裕があって、はじめてできるのが自炊だ。
カネは俺みたいな低賃金でも週6で働いてりゃさすがに多少はなんとかなるが、時間と気力はダメだ。
俺はな、もう毎日の労働に力尽きて、米を研ぐことさえできない。
包丁を握れば、自分の土手っ腹をブッ刺してしまいたくなる。
冷凍食品をレンジで温めることがやっとだ。
たまの休みなら少しは時間があろうが、日が沈むまで布団から起き上がれねえ。
外が暗くなって起き上がれたら、コンビニまでのそのそ歩いて、ブランチ兼晩酌を買いに行くだけだ。
そして寝る。朝が来る。新しい朝が来やがった、労働の朝だ。
だが、3日休めるなら、少しはマシだ。
やってやる、やってやるぜ俺は、自炊をよ。
なんだ、旅行にでも行ったらどうだだと?
まったく、貴様は分かっていない。自炊のなんたるかを。
自炊ってのはな、節約料理を作ることじゃねえ。
じゃあなぜ自炊をするのか、知っているか?
そりゃあもちろん、自由のためだ。
自由を取り戻すんだよ、俺は。ビーフシチューを煮込んで。
それも、酒を飲みながらな。この上なく自由な行為だろ。
バカみたいな量の好きな食いもんを、誰の目も気にせず、食らう。そして飲む。
それは自由だ。貴様の食事は自由か?
外食? 外食はダメだ。
隣の席のおっさんに調味料を譲らなきゃとか、後ろから職場の人間に声をかけられまいかとか、スマホを見ながら食っても許されるタイプの店だろうかとか、そんな不自由な思考に縛られる。
だが自室ならどうだ。調味料をバカみたいに使える。人目を気にせず全裸にさえなれる。スマホからよくわからない動画を流しながら、ワインを瓶からラッパ飲みして、デカい音でゲップをする。
ああ、自由だ。我々は現代社会に奪われた自由意志を、自炊によって奪い返さなければならない。
貴様はなぜ俺がこれから自炊をするか、分かってくれただろうか。
そうだと嬉しい。そして貴様も煮込むんだ、ビーフシチューを。
うん? よりによってクソ暑い8月にビーフシチューを煮込みたくない、だと?
ははは、正論だな。だが間違っている。
自由になるには、煮込み料理でなければならない。
なぜなら煮込み料理はどんな料理下手でも失敗しない、慈愛に満ちあふれた料理だからな。
具材を切って、鍋に入れて、火にかける。火にかけ続ける。そうするにつれ、俺たちは神の御許に近づく。だから煮込み料理だ、ビーフシチューなんだ。ポトフでも構わんぞ。
なに、カレー? カレーはダメだ。ライスが必要だからな。ライスでは酒を飲めない。
それに、カレーには自由がない。バカみたいな量を食っても、それはただの「大盛りカレー」でしかない。カレー屋のテイクアウトとかで十分だろうが。
しかしどうだ、ひと鍋丸々のビーフシチューを食らいつくす。これは自由だ。しかし自分で作らなければ用意できない。貴様は見たことがあるか? 洋食屋に行ってビーフシチューだけを2杯も3杯もおかわりする奴を。そうだ、ないだろう。もし見たことがあるなら──そいつはきっと、真の自由人だな。帽子を脱げ、敬礼しろ、最大限の賛辞を示せ。
……フッ。しょせん俺も、この六畳一間のボロアパートの一室でしか自由になれない、哀れな囚人というわけだ。
なあ、笑ってくれよ、貴様。
貴様、貴様やい。
酒は好きか?
嫌いならそれでいい。2024年は、なんか変な味がするくせえドラッグを礼賛する時代ではない。
大半の人間にとって酒は付き合いで飲むものらしいが、俺は毎日平気でひとりで大量に飲む。アルコールを全身に回して、そのまま倒れるように眠る。
俺は愚行権の信奉者であり、このまま肝硬変だとかでくたばろうと構わない。
誰にも迷惑をかけていないからな。
貴様は俺なんかが死んでも、なんの不利益もないし、なんの感情も湧かないだろう。
そうだ。
そういうことだ。
だが、まあ──人は、主義主張を変えるものだ。
俺はバスタブに横たわりゲロまみれになって死にかけたあの日から、「禁酒」というものをしてみた。死にたい死にたいと日々こぼす俺なのだが、本当に死にかけたら「こうやって死にたくはねえなあ」とぼんやり思ってしまった。
もうちょいマトモな死に方をしたいって下心だ。下品だな。
それと単純に、ついに酒で他人様に迷惑をかけたから、その反省というか……詳しくは、聞くな。
貴様にはいつか話してやるから。
ああ、とにかく! 禁酒をすることにしたのだ。
一つだけ懸念点があるとすれば──俺は、アルコールなしに、夜を越せるのだろうか。
俺のこの希死念慮に、酒で脳をふやけさせることなく、耐えられるのだろうか。
俺は怖くて仕方ない。自分の生に、未来とかいうやつに、向き合うことが。
俺は、酒がなくても人間のかたちを保てるのだろうか。
そうして俺は、ひと月ほど禁酒を始めた。
それで、ええと。結果から言うとだな、うん。
何も問題なかった。
酒を飲まなくても、驚くほど変わり映えのない日々が続いた。
つまり人生が好転することさえなかった。
昼は眠いし常に怠いし死にたい。夜は家に帰って風呂に入って飯を食ったら、あとはもう寝るしかないのだ。
「酒を飲みながら飯を食う」が「飯を食う」だけになったところで、何かが変わるわけもない。
眠りは浅いままだ。寝つきも悪い。
ただ意外なことに、夜のシラフな状態で希死念慮に襲われるとかそういうことはなかった。
なんせ数時間後には朝が来る。生きるとか死ぬとか、そういう暇なことを考えてる余裕はない。
モラトリアムだのメランコリーだのは、そうして忘れ去っていく。
俺もずいぶん大人になったものだ。
涙が出そうなほど死にたくなるのは、仕事をしている昼間だけだ。
それと、噂によるとだな、30を過ぎてバカみたいに酒を飲んでも、別に面白い人間になれる訳ではないらしいのだ。
貴様、知っていたか? 俺は知らなかった。
バカみたいに酒を飲めば、それだけで自分が愉快な存在でいられると思っていたのだ。
そういう考えは大学生とか、そこらまでで卒業するものらしい。
しかも頭のいい人間は、何歳であろうとバカ酒飲みが人生の無駄にしかならないことを知っていたそうだ。もっと早くに教えてくれよ、そういうことは。
俺の禁酒は、友人の結婚式で新郎を酔い潰すという大義名分のため終了した。
あの夜もバカみたいに飲んだが、終わってしまえばどこか虚しかった。
それからも結局、なんとなく飲んでいる。
酒が無駄だと分かったのに、なぜ飲んでいるのかって?
これは──そうだな、俺にとって飲酒というのは、精神的なリストカットのようなものだ。
自分の脳を腐らせることで、俺には腐る余地のある脳が残っていることを確かめたかったんだ。
ジェットコースターやホラー映画と一緒だ。生を実感するために、死に向かう。
健康的ではない。しかし、これを自由と呼ばずなんと言おう。アルコールは逃避先ではなく、自由のシンボルなのだ。
言っただろう? 俺は愚行権の信奉者だと。
ただまあ、平日にまで飲む必要はあまりないのかもな、とは思うようになった。
ずいぶんと話が長くなった。
それだけ仕事を終わらせるのに時間がかかったんだ。
なあ、許してくれよ。俺と貴様の仲だろう。せっかくの休日が始まるんだ。ハッピーにいこうじゃないか。
貴様。貴様はビーフシチューに何を入れたい。
俺は実のところ、数えるほどしかビーフシチューを食った記憶がない。
本当はもっと食ったことがあるんだろうが、食に関心を持ち出したのは働き始めてからだ。
脳みそを使わなくても享受できる数少ない娯楽だからな。
適当にネットで具材を調べたらリストを作って、食材の買い出しに行こうじゃないか。
さあ、ドアを開けて外へ飛び出そう──待て、この気温のなか、外に? マジで?
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午後3時。俺はやっと家を出た。
ずるずると買い出しを先送りにしているうちに日は傾いてきたが、それでも太陽は変わらず俺の身体をじりじりと焼き付ける。
いやしかし、牛スネ肉を売っている店がいっこうに見つからない。
なぜならスネ肉とは煮込み料理にしか使えず、今は最高気温が35度を超える真夏であり、真夏に煮込み料理をする人間は気が触れている。
そして資本主義社会は、気が触れている人間に酷く冷淡である。
だから社会は、俺に牛スネ肉を売らない。
2駅歩いた先のスーパーでやっと見つけ、野菜とともに買って帰る。
イヤホンからは、KornのA.D.I.D.A.S.が流れている。
“俺は毎日セックスの夢を見ている”──羨ましい限りだ。
だが俺は今、ビーフシチューの白昼夢を見ている。
性欲と食欲、どちらが勝者かはっきりさせようじゃないか。
待たせたな、貴様。
俺はこれから、ビーフシチューを作る──いや、煮込む。
煮込むためにビーフシチューを作るんだ。そこを履き違えてはいけない。
資本主義に奪われた俺たちの自由を、取り戻すんだ。
いいか、まな板と包丁を用意しろ。
具材を切るんだ。タマネギもニンジンもマッシュルームも、すべて適当に。
デカくたって構わない。何度も言うが、死ぬほど煮込むんだ。全部ぐちゃぐちゃのどろどろに溶ける。
切り刻み次第、全部鍋に入れろ。そしてワインをぶち込む──もっと、もっとだ──いいぞ、もっと──もっと──ああ!
ワインがほとんどなくなっちまった、クソッタレ。
普通に飲むために買ったものだから、結構高かったんだぞ。1000円ちょっとぐらい。
かすかに残ったワインをラッパ飲みしたら瓶を放り投げ、鍋を脇によける。
肉を焼くぞ。フライパンを用意しろ。……なに、煮込みながらやれば早い?
そうか。それはそうだな。貴様はそうするといい。俺のコンロは一口なんだ。
ニンニクを刻んで、バターで炒め、肉を焼く。
素晴らしい見た目、素晴らしい匂い。もう今晩はこれでよくないか?という邪念を振り払い、焼け。
焦がす勢いで焼き尽くせ。いや、すまん、盛った。焼き色がつくまででいい。
どうせ煮るから火は通る。これでも俺も、高揚しているんだぜ。仕方ないじゃあないか、貴様。
焼けたか? ならそれも鍋に入れろ。次はジャガイモだ。
ジャガイモはドロドロになってルーと混ざるから嫌だ、だと? ワガママ言うんじゃありません。
ジャガイモは穀物のなかで一番うまいんだ、鍋料理だろうと入れるに決まってるだろ。
ポトフだってポテトが入ってなきゃ始まらない──え? ポトフの名前は別にポテトが由来なわけじゃない?
うるさいな、いいから芋を入れろ。
しかし煮崩れさせたくないという貴様の言い分も分かる。
だが俺は天才的な解決方法を思いついた。嘘だ。ネットで見た。
フライパンにたっぷり残っている肉の脂に──ちょっとサラダ油足しとくか──乱切りしたジャガイモを放り込む。
そう、素揚げだ。これで俺の計算によれば、煮崩れしない。
俺の計算というか、ネットに書いてた。
俺はインターネットと共に生きてきた。ちょっと昔とは変わっちまったけど、根はいいヤツだと信じている。
皮はつけとけ、フライドポテトでもそんな感じのがあるだろ。
俺は普通に細くてカリカリしてる方が好きだけど。
で、鍋に入れろ。
こうなる。
あとは火にかけろ。簡単だな。
ところで貴様、ビールは持ったか?
このビール缶を、BBQに持って行くわけでもないならバカしか買わないタイプのこのビール缶を、ビール缶をな、頭より高くグッと持ち上げて飲め! 飲むんだ! ……ああ、知能が落ちる。念のため、予備のワインも開けておけ。
……ふむ。
せっかくアルコールを頭に回しているのに、浮かない顔をしているな貴様は。
どうした? そんなにジャガイモが心配か?
ほら鍋の中を見てみろ。まったく──そんなに崩れていないじゃないか。
そうだな、つまみ代わりにひとつ食ってみるか? ほぉら、別に何とも……
ガッ! にっっっが!!!
は? 何が起きた? 貴様、謀ったか? ぐっ、舌がしびれる。花椒でも入れたのか? この俺の、ビーフシチューに……は? ソラニン? いや芽は生えてなかっただろ……は? メークインはソラニンの含有量が多く皮にも蓄積されてることがある? なんだそれ、ネットで聞きかじったような知識を振りかざしやがって。嫌な予感がする、トイレに──こういうときに飲酒経験は役立つな、「吐く」という選択肢が人より抵抗なく取れる──ウッ!……はぁ、ふぅ、ふぅ、ああ──クソッタレ! 胃袋から出てこねえ。はぁ、完全に飲んじまった。はぁはぁ、まあたぶん大丈夫だろ……なに? 致死量のソラニンが入っているから今すぐ鍋のものを捨てろ? なっ──ふ、ふ、ふ、ふざけるな! き、きさ、貴様、貴様が何を言っているのか分かっているのか? はぁー。はぁー。お、俺がこのビーフシチューにどれだけの金を費やしたと思っている? いっ、いいか、このビーフシチューは絶対に捨てないぞ。はぁはぁ。このジャガイモだって捨てない。ふぅー、ふぅー、皮を剥いたら別に問題ないだろうが。塩振って食うからな。食うからな! ほらみろぉ! 塩と芋の味がしてうまい。
……違う! 紫色なのはワインの色だ。腐ってない! 買ったばかりだぞ、馬鹿。あの店が、真夏に牛スネ肉をそこそこの価格で売る高潔な精神を持ったスーパーが、そんなジャガイモを置くわけないだろうがぁ! この馬鹿!
………………。
……ああ、ふう。
なあ、貴様。取り乱して悪かった。
つい、毒を盛られたと思ったんだ。
俺に、ビーフシチューを煮込んでいるこの俺に、貴様は嫉妬しているんだろうと。
すまない。本当にすまない。
貴様を疑った、愚かな俺を許してくれ。
貴様も俺と同じ、現代社会の被害者だというのに。
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よし。
いろいろトラブルも起きたが、無事解決した。
いよいよ最終段階に入る。
徹底的に、煮込むのだ。
ところで貴様。
あくまでたとえ話だがな、目の前の人間の自殺を止めるとき、なんと言葉をかけるんだ。
生きていればいいことがある? 家族や友達が悲しむ? 死ぬのはもったいない?
フン。いいか。自殺とはな、この世で最もラクな結論だ。
確かに、基本的に人間は、本当に「死ぬしかない」って状況になることはめったにない。
本当は、他にも選択肢がある──あるはずなんだが、それを探すのはひどく億劫になる。
どうやって生きようか悩むことに疲れた、責任の取り方が分からない、そんな時に「死」が魅力的な解答に見える。
俺はその選択肢を取る人々を、責めることができない。
何の話かって? これはな、暴露だ。懺悔だ。
自由、自由とここまで言ってきたが、本当は俺は「自由」が怖くてたまらない。
自由は、正解も不正解もすべて自分の責任だからな。
第一、「何をしてもいい」って言われても、何もしたくねえんだよ。もう何も。
最近の俺は駄目だ。物語を受容することが苦痛だ。というかそもそも理解ができない、集中できない。
新しくゲームでもしようと思っても、新しい虚構世界に入ることが酷くつらい。
対人ゲームでの刹那的な殺す・殺されるの関係性ぐらいしか脳が受け止められない。
かといって成長のための努力もできない。ただただ漫然と殺され続ける。
ははは、昼間の俺みたいだな。馬鹿らしくてスイッチを消す。
ああ、とにかく疲れきっているんだ。
俺は「自由」に慣れる必要がある。
だからこれからの行為は、リハビリみたいなもんだ。
言っただろう、これは疑似的な自傷なんだと。
死から逃れるために自由になろうとしているのに、死を選ぶことに自由を見いだしているのは矛盾しているのだろうか。
矛盾しているのだろうな。
生産性なんて何もない。でも俺には、これくらいしかできることがない。
だから貴様、鍋を煮ろ。
鍋を煮ろ。
鍋を煮ろ、鍋を煮ろ。
鍋を煮ろ。鍋を煮ろ、煮込め、煮込み続けろ。暖房をつけろ。服を脱げ。鍋を煮込め。鍋を見つめろ。鍋からぼこぼこと湧き出るあぶくを見つめろ。鍋を煮込め。鍋にワインを足せ。ワインを飲め。ワインを頭から浴びろ。ワインを足せ。ワインが切れたらビールを足せ。ビールを飲め。とにかく酒を飲め。外で飲め。職場で酒を飲め。意識はいらない。そんなものは鍋に入れろ。エアコンの温度を上げろ。とめどなく流れる汗を煮込め。鍋を煮ろ。肉を煮ろ。野菜を煮ろ。だが物足りないな、冷蔵庫を開けろ。魚を煮ろ。納豆を煮ろ。調味料を煮ろ。缶チューハイを煮ろ。空き缶を煮ろ。デパスを煮ろ。脱いだ服を煮ろ。請求書を煮ろ。契約書を煮ろ。何も恐れることはない、明日は休みだ。明日を煮込め。明後日も煮込め。時を煮込め。美しき過去を煮込め。鈍色の未来を煮込め。今現在以外のすべてを煮込め。煮込め。喉が渇いても煮込め。頭が働かなくても煮込め。倒れても煮込め。理由もなく流れる涙も煮込め。煮込め、煮込み続けろ。煮込み続けたその先に、薄れる意識の向こうに神を見ろ。見えたなら神を煮込め。煮込め、煮込め、煮込め──
貴様の目の前のビーフシチューは、
そうやってできた。
だいたい4時間ぐらいだろうか。
苦労して探したスネ肉は、トロトロという次元を超えてルーと一体化している。
さあ、食うぞ。喉をワインで潤して、むさぼり食うんだ。
見る気も起きないクソみたいな映画を爆音で流そう。
鍋に直接フランスパンをねじ込んでディップし、かみちぎろう。
これを夜通し続けるんだ。胸が高鳴って仕方ない。
さあ、宴は始まったばかりだ。
………
……ふぅ…………
ふた口で飽きた。
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やあ、貴様。
ああそうか、貴様とも久しぶりだな。
あの時のビーフシチューか? もちろん全部食ったさ。2日かかったかな。
幸いにも、ジャガイモの皮の影響はなさそうだ。多少腹を壊したが、油の問題だろう。たぶん。
アレンジをインターネットで調べて、できあいのハンバーグとチーズを入れてみたりしたが、さらに濃くなって飽きが加速したぞ。ははは。
ところで貴様。
あれだけ死にたがっていた、貴様。
貴様は今、そんなに熱心に、何をしているんだ?
……いいや。言わなくたって分かる。だろう?
俺は貴様で、貴様は俺なんだから。
貴様は──未来の俺は。
今日も、煮込んでいるんだろう?
そう、
もつ鍋を。